短い小説をたくさん、できるだけたくさん書こうと意気込む日々が続いています。意気込むだけで積みあがらないのが悩みの一つ。
不思議なことに、毎度毎度同じ話が出来上がります。全部違う話なのに、同じところに行きつく感覚がある。悩みの二つ目。
なんだか、どれだけキレイに字を書こう、丁寧に書こうと頑張ってみても、書きあがったノートを見ると間違いなくいつもの自分の癖のある字でげんなりする、みたいな感覚です。
これはまずいことなのか、それともそれが僕の表現ってやつなのか、よく分からないけど、とにかく僕は書きあがった小説を読み直すたび癖字のように浮き上がるモチーフに「同じものを見ていた記憶」があることが分かってきたのでメモです。
あ、興味ある方は公開している小説がこちらから読めるのでどうぞ。
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分かってきた、というのは少々嘘で、このことはだいぶ前から気付いていました。
「同じものを見ていた記憶」
それは本当でも嘘でもいいです。つまり厳然たる事実でも良いのは当然だけど、錯覚でも思い込みでも構わない。そう信じられることが大事。
あのとき僕とあいつは同じものを見ていた、と思えることが、人生にとって重要だと思ってる。
あのときあの人と同じものを見て、同じ気持ちになったと信じられることが、僕にとっては生きるための「支え」と言ったら大げさだけど、「希望」のようになっているのです。
おお、より大げさになってしまった。
なんだろう。核?火種?芯?
上手な言葉が見つからないけど、とにかくそういう、人と会ったり、朝起きたり、文章を書いたり、そういう、大きなエネルギーを燃やすのに必要な、きっかけのような灯りです。
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むかし、友人にこんな話を聞きました。
その友人は一時期、カナダのモントリオールにいたのですが。
カナダの中にあってフランス語が第一言語のその都市で、友人はまだ慣れないフランス語に戸惑っていたそうです。
だけどある日、露店で果物を見ているとき、隣の男性と目が合ったらしい。同じ果物の、同じ値札を見て、「たかっ!」って(たぶんお互い)思って、思わずギョッとして目を上げた友人と、隣にいた男性の目が合った。
あのときはねー、目で会話できたよね。たかっ!って思ってたもん、絶対。話してないけど高いよねーって会話できたんだよ。高いとしか思えないよ、高いんだもん、って友人は言って笑ってました。
細部はうろ覚えだし故意にぼかしてるけど、僕はこの話がすごく好きで、きっとこういう話が書きたい書きたいと思っているのでしょう。他人事みたいだけど。
あのときはねー、絶対同じこと考えてたよね!みたいなときの、ほくほくする感じや、ときには切ない感じ。
記憶の中で「一人じゃない」って思えることは、ときに、物理的に傍にいることより、形だけの会話を重ねるより、ずっと僕らの人生のエンジンになることがある、と思うのです。
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人生においては、きっと同じものを見ていても同じものを見ていないことの方が圧倒的に多いです。
同じものを見ていても、同じものを見ているなんて思えないことの方がずっと多い。
こんなことに説明は不要だと思うけれど、人と人というのはなぜかものすごく隔たっているもので、同じものを見て、同じことを感じて、きっと同じように記憶するだろうって信じられる経験って、すごく貴重です。
たぶんこれは間違ってないと思う。
小説を書く理由や、まちづくりを考える理由、コミュニティを築きたいと思うのはきっとそういう瞬間をもっと見たいからです。
この確信めいた実感はたぶん間違ってないです。
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