僕らはどう足掻いても失敗する生き物だと思う。僕らはあまりに複雑すぎて、欲が深すぎて、気分が変わりやすく、その点のみみても状況は刻一刻と変わるから、今導き出した正解が次の瞬間にはもう古くなってしまう。
移ろいやすいからこそ間違え、感情を持つからこそ間違え、素朴な肉体を動かすにあたっての要求が大きいから間違える。僕らは間違えるし失敗する。基本的に当てにならない生き物だ、と思う。
この点を考慮して社会は作られていると思います。僕らの社会は失敗を前提に作られる。その前提は忘れない方が良いと思うし、なんなら積極的に肯定しても良いんじゃないかな、というのがこの記事で言いたいことの最初。
最終的には、他人の失敗とか間違いにもう少し鷹揚になれたら良いよね、という話がしたい。
失敗を前提に作られる賢い社会システム
社会は僕らの失敗を前提に組まれている。少なくともそうである方が賢いはず。
僕らはどう足掻いても失敗する。失敗を見越して行動してもなお失敗する。間違いを憎む心が間違いに対して狭量になる、という間違いを起こさせる。僕らはどこかを防げばどこかに穴が生じる出来損ないで、どちらかが立てばどちらかが立たないままならさを持ってる。
そのことを認め、その上でシステムを作るのが賢い。多分個人レベルでもそう。ある程度の失敗や間違いは「あるもの」と見越しておくと心に余裕が生まれると思う。心に余裕が生まれれば賢さに繋がると思う。
このブログの話題は多くがこちらのエッセイの受け売りです。
↓こちらも同じところに飛びます。
Essay 505 : 「分かった気」になりたくない無限の旅
非常に長いエッセイですが、栄養たっぷりですので是非読んでほしいです。こんなボリュームのエッセイが1000本近くあります。普通のブログがインスタント食品に見える質と量です。
該当箇所だけ引用させてもうらうと
人間の無謬性を信じず、「いつかどこかでミスをする」という大前提にたって全てを構築していきましょうというのが中世→近代の転換点です。対審構造や三審制度(それでも尚も間違えるかもしれないから3度チャンスを与える)とか、三権分立(どっかが暴走するのを他方が止める)、行政不服審査のシステムなどなど、全ての法体系は「ミスらないために」&「ミスったときどう救済するか」というプロテクト&リカバリーシステムとして成立しています。だから、マスコミや警察が「こいつが犯人、こんなにヒドい」と発表したら、それを鵜呑みにして感情を波立たせるのは「中世」的発想に近い。
僕らはとにかく間違う。この世界の重要なところ、賢い部分はこのように、僕らが「間違う」「失敗する」という前提に立って構築されている。
きっとこれが悪く働くと癒着とか天下りとか、既得権益の死守と言ったシステムに応用されるようになるんだろう。アレルギー反応みたいな感じで、失敗とか間違いと言ったエラーを過剰に防御しようとする働きが結果的に厄介な問題になってる、みたいな感じ。
さて僕らは間違うとして、その救済策も講じられていて、しかし、他ならぬ僕らの心が、自らの失敗も、間違いも認めたくない。
僕らは失敗や間違いを犯すものだとよく知っているからこそ、過剰なまでに人のふり見て我がふりを直そうとするし、間違いや失敗(それを犯した人)を忌避する傾向があると思う。
間違いは犯さないに越したことはない、失敗しないに越したことはない、という思考が、他人の失敗をも許さない狭量さを作る可能性がある、とも思う。
この点をこのブログでは着地点にしたい。
罪を憎んで人を憎まずが浸透すれば良いね
SNSで炎上を見るたび辛い。私刑まがいの糾弾をする個人が増えたと思う。自らに正義があると踏んだ途端に個人を叩くのが当たり前の光景になってるんじゃないか。
間違ったことをして叩かれるのは影響力がある人、名前と顔が知られている人ならば仕方ない、という意見もあるかもしれないけれど、それこそあまりに中世的というか、成熟した文明がやることじゃないように思う。
人の間違いや失敗を指摘してもこちらの成功にも達成にもならない。いや、叩いた相手が再起不能になったり、傷ついたりすることが「達成」なのかもしれない。けどそれもアレルギー反応に似てる。過剰防衛という感じ。結局時間とか感情を無駄に費やしてる。
大衆の道徳的な目が文明を成熟させているという見方もできるかもしれない。それでも少し窮屈だなと感じることが多いし、発信が恐ろしくなることがある。
何度も言うけど、僕らは絶対にどこかで間違うし、何かをしようとすれば失敗する。それ自体は恥ずかしいこと、避けたいことで良いけれど、それを指して個人の人格を否定するのはおかしいと思う。
つまり、罪を憎んで人を憎まずの精神。少なくとも法は一応そういうシステムになってると思う。
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