存在価値と利用価値/人やまちはどちらの価値を追っているのか

発想と行動を記録する

存在価値と利用価値、という、価値の種類についての考え方もあると思います。

存在価値とは何で、利用価値とは何か、なんて説明は不要と思うけれど、これらについて考えていると、「まち」の価値や人の価値ってはっきりこちらとは言えないケースが多く、揺れがちだよなと思う。

例えば、自分の子どもは大きな存在価値を持っていると感じます。いてくれるだけで良い。いるってことが喜び。親にとって子は存在価値の権化。恋人や友人だってそのケースが多いですよね。

しかし、いわゆる「社会に出る」頃になると、途端に僕らは圧倒的他者によって「利用価値」を求められるようになります。

お前はどれだけ使えるの?どれだけ役に立つの?どれだけ希少な人なの?と問われ、はっきりと「ただいるだけのヤツは無価値だ」という現実を突き付けられるようになる。

「まち」もこれと同じように、「存在価値」を感じている地元民の一部が、外部のほとんどに利用価値を問われる、という残酷な構図があって、ほとんどの地域が「利用価値」を訴えるのに汲々としながらも「存在価値」を認めて欲しいと思ってる。

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遠くの人に存在価値を認めさせようとする行為の無駄

存在価値と利用価値は共存している状態が普通なのかもしれません。

近くの人にとっては存在自体が価値になり、遠くの人にとっては利点が価値になるというだけの話かもしれない。

だから遠くの他者に向けてはきちんと利用価値を提示して、こちらから近づく努力をするというのが正攻法なんだろう。

多分一番おかしなことになるのが、遠くの人に存在価値を認めさせようとする行為だと思う。

例えば僕が自分の子どもの存在価値を語っても、遠くの人には響かない。自分の家の猫がどれだけ神々しい存在であるかを語っても、よくある話の一つになってしまう。

存在してくれる喜びを語ると、途端にありふれた「あるある話」になる。

まちもそう。まちの魅力とか聞かれて、自然がとか、人がみんな優しくてとか、そういう場面って腐るほど見てきている。地元の人はそんなとき「利用価値」なんか答えない。あまりそんな風に地域を見ないから。

例えば友達の良いところを聞かれて、「国家資格を持ってる」とか「旅行のとき予約とか全部してくれる」とか利用価値を答えることはないんじゃないでしょうか。友達なら。そういう利点があったとしても、優しいとか、真面目とかいう言葉に置き換えられるものだと思う。

しかし皮肉なことに、それが「とてもありふれていて、多勢にとって無価値」というアピールになってしまったりする。

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「旧佐藤医院」と「80年間継ぎ足されてるタレ」の価値

一方、僕のまちのコミュニティスペースである「旧佐藤医院」の価値について、悩んでいることがあります。

旧佐藤医院
北海道士別市朝日町にある、コミュニティスペースです。元病院です。

昭和5年の建築を管理して、コミュニティスペースとして活用しているのだけど、なかなか「存在価値」を越えられない。

「古い建物を残している」という点にばかり着目されがちで、「存在価値」だけが独り歩きしているような気がすることがあります。

つまり、「空き家になっている建物を残そうとしたこと」や「キレイなまま維持されていること」に対して評価される場面が圧倒的に多く、いまいち「使える」ということに対して認められていないような気がするのです。

いや「存在価値」を認めてくださること自体はとても嬉しいのですが、そこばっかりになるとなんかもう一歩先に行けないような気がします。

コミュニティスペースの使い方を自分で考えてもらいたいワケ
我が町のコミュニティスペース「旧佐藤医院」で殊更に「使い方は利用者に託されている」「自由に使ってください」と言っている意味を改めて書いておきたいです。何度か書いていることではあるのですが、この点に絞って書いたかどうか分からないし、書いた...

このケースにおける「存在価値」というのは、自分の子や猫に抱く存在価値とはちょっと違うんじゃないか。

なんというか、鰻屋さんの「80年継ぎ足しされてるタレ」に共通する存在価値なような気がして、言うなれば「なんかよう分からんけどすごい」とか「無くなるのはもったいない」みたいな域を越えない、というか。

継ぎ足されてることより「美味しい」ってことに価値があるんよ!って言っても、「いや80年継ぎ足されてるのはすごいですね。80年ですか、ほおー」としか言われねえ、みたいな。

これが例として適切なのかは分からないけど、なんかモヤモヤするな、という話。

 

 

 

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