創作意欲がポジティブなときに湧く人とネガティブなときに湧く人

日本文学というくくりで言えば僕は谷崎潤一郎に憧れを抱いているのだけど、河野多恵子著『谷崎文学の愉しみ』という本の中に面白いお話しがありました。

ちょっと長くなるけれど引用させてもらいます。

一体谷崎の創作衝動はたとえば失恋には不向きなのである。古今東西、失恋は多くの作家に名作を書かせてはいるけれど、谷崎にとっては、失恋は創作衝動を熾んにするものではなく、萎えさせるものでしかない。恋愛の強い手応えや得恋こそが、彼の創作衝動を溌剌とさせ名作を書かせるのである。

谷崎はポジティブなときに創作衝動を起こした。

言われてみれば、僕は谷崎潤一郎のこの性質に親近感を抱いているのではないかという感じがしました。

同時に、「そうか、心に靄がかかってなくても、傷がなくても、小説は書いて良いんだ」という新鮮な驚きがありました。

みなさんはどうでしょうか。創作意欲はポジティブなときとネガティブなとき、どちらで湧く傾向がありますか?筆が進むのはどちらの場合ですか?

もしくは僕のように小説はネガティブを材料にすべきだ、という思い込みを持っている方はいないでしょうか。

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小説がもつネガティブなムード

何となく作家というのは神経質(神経症的)であったり、弱さとか醜さとか、そういうものをエンジンにして物を書いているような気がします。

傷、恥、後悔、嫌悪、悲哀それこそ失恋などを材料にして、言いたくても言えないこととか、反芻してしまうこととかを書くのが文学、小説だと思っていたところがある。

保坂和志著『書きあぐねている人のための小説入門』の中に、小説というのはどうしてもネガティブなムードみたいなものが漂ってしまう、というようなことが書かれている箇所がありました。

たしかに、小説という形式で記述されることはことごとくネガティブな印象がある。

例えば「ヒロアキとアケミの結婚生活は三年目に突入しようとしていた」という冒頭文があったとき、どちらかというとその生活の破たんを思い浮かべてしまうのではないでしょうか。そういう強力な磁場みたいなものが小説という形式にはありますよね。

だからネガティブをエンジンにすべきだという思い込みがあって、小説を書くときというのは、自分の内面の暗い部分とか、悲しい部分を見つめようとしてしまう。

もちろんそれ自体は間違っていないのかもしれないけれど、小説的(だと思いこんでいる)思考のせいで過度に厭世的になったり、悲観的になってしまうようなことがもしあれば、そのスタイルを疑っても良いのかもしれない、と思うのです。

↓参考

『書きあぐねている人のための小説入門』は何度も読んだけど、保坂和志の小説を読んだことがない

肯定の欲望

小説を書くのなら、どこかで欠落を感じていなければならない、満足してはならない、という思い込みが僕にはあったように思います。

僕と同じような人が多分いるのではないでしょうか。

満足してしまったら小説を書く意欲がなくなってしまう、欲が満ちたら小説を書く意味がなくなってしまう、と思い込んでいる。

しかし以下を読んでほしい。

すべての作家において、作家としての個性は人間としての個性から派生したものであるはずだが、谷崎潤一郎はこの世は自分の感覚と意識にとって(時には、前世と幽界をも含めて)、至上の楽土であるべきはずだという信頼と自信が最大の特色だった人であり作家であったように思われる。

このブログを読む人の中には、引用したこの文章にピンと来る方もいるのではないかと思います。

そういう方はもしかしたら、ポジティブな状況や精神状態における創作に向いている人なのかもしれません。

もしこの感覚にピンと来た方がいたら、以下の文章も参考になると思います。

谷崎は常に、彼の頭に発酵する妖しい世界を肯定し、それを材料にした甘美にして芳烈な芸術を創造したのであり、肯定せずにはいられない想像世界を発酵させることが彼の欲望なのであった。彼の肯定は妥協や単なる是認や諦観自足ではなく、また主張や顕示の欲望に結びつくものでもなく、全き肯定の欲望なのであった。彼の耽美的文学が賛美的文学に止まらなかったのも、そのためなのである

「肯定の欲望」というのは実に良いワードですね。

ネガティブとポジティブで今日は分けたけれど、自分は基本的に世の中を肯定している人間か、それとも、基本的に否定している人間か、ということを見つめてみると、書くべきものの輪郭が少しはっきりする、という方もいるのではないでしょうか。

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