創造力に自信がないとか、クリエイトに興味がないとか関係なくクリエイティブに巻き込まれる時代

自分で考える創作論

創造力に自信がないとか、クリエイトに興味がないとか関係なく、クリエイティブに巻き込まれる時代だと思います。

創作やクリエイトの分野って、印象としては人口の15%くらいの人が成人するまで維持している特別な能力って感じがしませんか。

「クラスの変わり者」とか「やたら器用だったヤツ」が辿り着く境地、みたいな。

僕の中にはそういう印象があったんだけど、現状、表現の場は豊富になって、表現の方法の幅が広がって、表現の道具は手に取りやすくなって、だからクリエイトに対する敷居が低くなって、多かれ少なかれ誰もがクリエイターめいている。

工作とか想像とか手先を使うとか表現するとかは昔からてんでダメで……なんて言ってられないほど、僕らの生活にはクリエイトが付きまとっている。

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創造を、クリエイトを強いる声

世界が、テクノロジーが、社会の流れが、この時代の人生設計が、僕らに、僕らの手を使って、頭を使って、何か創れ、人の心に手を伸ばせ、とまくし立てている。

そんな風に感じることがあります。創造を促す声はしんどい。表現はそれなりにエネルギーを使う。

その裏には「何らかをクリエイトして何者かにならなければお前は無用な人間のままこの先何年も無為に生きることになる」という無言の脅迫がある。

「消費するだけのヤツは『ただ消費する人』として創作者に消費されていることに気付かないまま人生を過ごすことになるのだ」という真実がある。

漠然と、恐怖と焦りと反発心が芽生える。

なんだよクリエイトって、創造って。それは一部の人がやるべきことで、特別な才能が必要なことなんじゃなかったのかよ。

急にこれからの社会では創造力がモノを言うと言われたって、むしろクリエイティビティが発揮できないヤツは無用だと言われたって、今更作る側になんてなれないよって思う。

創造やクリエイティブに片足を突っ込んでても不安で苦しい

僕はこうしてブログを書いてるし、小説を書いたりもするから傍からみれば十分創作者でクリエイターに足の小指くらいは突っ込んでる、と思われる位置にいるかもしれない。

だけどそれでどうやって人の心を掴めと言うのか、どうやってオリジナルになれというのか、どうやって「無用な人間」から脱却しろというのか、と考えれば暗中模索にもほどがある。

かと言ってただ人の表現を享受しているだけで幸せだ、とは割り切ることのできない面倒な自我がある。僕だって作りたい、感じたことは残しておきたい、世界を切り取り、探り、解釈し、好奇心を満たし、美的な感覚を誰かと共有したい。

表現すること、創作すること、クリエイティブでいることは苦しい。

そんなとき、最近読んだ本のある文章が心の助けとなったので残しておきたい。

ただ芝を刈るだけの人間と、庭師とのちがい

人は死ぬとき、なにかを残していかねばならない、と祖父はいっていた。子どもでも、本でも、絵でも、家でも、自作の塀でも、手作りの靴でもいい。草花を植えた庭でもいい。なにか、死んだときに魂の行き場所になるような、なんらかのかたちで手をかけたものを残すのだ。そうすれば、誰かがお前が植えた樹や花を見れば、お前はそこにいることになる。なにをしてもいい、と祖父はいっていたな。お前が手をふれる前の姿とはちがうものに、お前が手を放したあともお前らしさが残っているものに変えることができれば、なにをしてもいいと。ただ芝を刈るだけの人間と、庭師とのちがいは、ものにどうふれるかのちがいだ、ともいっていた。芝を刈るだけの人間はそこにいないも同然だが、庭師は終生、そこに存在する、とね 

早川書房『華氏451度』伊藤典夫訳 261p

誰かに感動を与えるとか、実力を認められて有名になるとか、資産を築くとか、創作やクリエイティブに関わる欲は無限にある。

クリエイティブであることは現代の生存戦略となりつつある。クリエイティブは芸術家だけに求められる能力ではなくなった。

それはこの物質が飽和した世界の中で優越的な位置に辿り着く正当な手段に見える。

だからこそ創造を志せば焦るし、葛藤や迷いが生じるし、悩む。才能がないとか気力がないとか思う。そもそも何を作れば良いのか、どんな風に表現すれば良いのか。

「お前が手をふれる前の姿とはちがうものに、お前が手を放したあともお前らしさが残っているものに変えることができれば、なにをしてもいい」

 

 

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