【小説の話】ストーリーには大きな謎を、文体には小さな謎を

shiny small balls scattered on table in light studio自分で考える創作論
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謎→答え

疑問→解答

文章にはがっつりこの流れがありますね。

小説を書くとき、ストーリーが担うのは大きな謎で、文体(というか各センテンスとかワードとか)が担うのが小さな謎なのではないか、というようなことに思い至ったのでメモります。

大きな謎というのは、割とはっきりした謎でしょうか。

「この人はこの後どうなってしまうんだろう?」とか、「この人はどうしてこんなに傷ついているんだろう?」というような全体を通して答えへ至るような謎です。

では小さな謎とは何なのか。それは違和感と言い換えた方がここでは良いかもしれません。

「あれ、これを語ってるのは誰なんだ?」

「この人はなぜそんな言い方をしたんだ?」

「この単語の使い方は少し変じゃないか」

ストーリーを追えば「この先どうなる?」というような疑問は当然解消されるし、先の展開を知ることによって、違和感を抱いた文章にも合理が与えられ、文体に関する疑問も晴れていく、という寸法。

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具体例を挙げてみよう

こんなことを言うだけじゃ分かったような分からんようなだから例を提示したい。

大きな謎、つまりストーリー上の「この先どうなっちゃうんだ?」とか「この人はどんな人なんだ?」とかそういうのは言ってる意味分かると思うから割愛しますね。

問題は文体の方。センテンスとか単語の選び方とか、もっと繊細な方。

例えば僕は皆川博子などが好きな作家の一人なんだけど、たまたま手元にあるから『少女外道』という短編集から、表題作『少女外道』の冒頭を例にとってみますね。

梅雨に入る前にきてくれるはずだった葉次が腰を痛めたとかで、庭木の手入れをしないままに夏となった。

これが冒頭です。

違和感のある文章だと思いますか?

梅雨に入る前にきてくれるはずだった葉次が腰を痛めたとかで、庭木の手入れをしないままに夏となった。

違和感のあるところをちょっと分かりやすくしましたよ。

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違和感がある文章

なぜ「くるはず」だったではなく「きてくれる」はずだったのでしょうか。

なぜ語り手は「葉次」と呼び捨てなのでしょうか?

なぜ「葉次」が「きてくれなかったら」「庭木の手入れをしないまま」なのでしょうか。

個人的に僕はこの辺に違和感を感じますね。

「きてくれる」はずだった、のニュアンス

まず「きてくれる」には親切のニュアンスがあります。

葉次が「わざわざ」来てくれるとか、「私のために」来てくれるとか。

そういう行為に対する労いの気持ちがこもっています。ここでそういう意味で使っているというわけでなく、一般的な日本語のニュアンスとしてね。

もしくは「葉次が来ることが嬉しいからこそ出てしまう」表現とも言えるでしょうか。

へえーじゃあこの語り手と葉次はかなり親しい仲なのかな?ただの庭師と客の間柄じゃないのかな?って第一印象で考えてしまう。

「きてくれる」という言葉だけでこんな疑問と印象が生まれてしまうわけで、作家は意識的にそういう予測をさせる言葉を選ぶものではないでしょうか。

庭師だろうか?家に出入りしている葉次を下の名前で呼び捨てにするのは何故?

まあそもそも親しくないと葉次と下の名前を呼び捨てになんかしないよな。

では恋人的な?それとももっと別の絆が?

ストーリーに対する謎も浮かび上がってきましたよね。

最初の一文だけで情報量が多いです。

疑問は疑問のまま、文章を読むエンジンとなるので頭に置いておいて、次に行きます。

「庭木の手入れをしないまま夏」を迎えたらダメやないか

「庭木の手入れをしないまま」夏になった ???

葉次しか庭師はおらんのか。「葉次が来ること」と「庭の手入れ」は別のことなのでは?

葉次が腰を痛めたなら、今年は仕方ないから別の方にお願いしよう、とならないだろうか?

だって髪を切らなきゃならないけどいつもの美容師さんがいないもんで伸ばしっぱなしにしてたってなかなかないでしょう?

お庭持ってる方は分かると思うけど、放っておいたらヤバいですよね庭。

じゃあこの語り手は庭にはそれほど愛着や興味がないか、そもそも手入れは不要なのに葉次には来てもらっているのかもしれない、ということが何となく分かるわけですね。

まだ一文目なのであくまで予測の範囲でだけど。

重箱の隅をつつくような、言いがかりのような読み方ではないか?

そんな風に言葉のニュアンスがどうとか、名前を呼び捨てがどうとか、普通こうしないか?みたいなことをあげつらって文章にいちいち躓くのは、言いがかりのような読み方ではないか?と思う人がいるかもしれません。

それに全編この調子で読んでいくのか?と思う人もいるでしょう。

もちろん好きに読めば良いし書けば良いのだけど、僕は読めば読むほど、作家というのは「躓き」を用意しているなと思うのです。

躓く箇所、見過ごせない箇所、つい「ちょっと待って」と言いたくなる箇所。

自分で仮説を立てた読みがその通りに像を結べば大きなカタルシスに繋がるし、予想していなかった像を結べば驚きになる。

小さな疑問を繰り返し繰り返し提示しながら、読者にスモールな思考を強いて、書かれていない箇所を想像させて、やがて大きな解答を導き出す。そういう物の語り方があるのではないかと思うし、個人的に僕が小説を読む悦びはこのあたりにあるな、と思ったのです。

だから自分が小説を書くときは(ジャンルとかやりたいことによるけど)、情報量の多い、予測の余地があるものが上手に書けるようになったら良いなと思う。

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