好きなことや大事なことが知られるのはリスクでもある

発想と行動を記録する

このブログでわりとコンスタントに読んでもらえている記事に 本当に好きなものは教えたくないという心理 というものがあります。

本当に好きなものは教えたくないという心理
実にさまざまな心理が折り重なって、僕らは「好きなものだから人に教える」と「好きなものだけど人に教えない」という選択のどちらかをするのだと思う。 人に教えるタイプと教えないタイプがいると両極端に考えるのは少々乱暴で、たいていの人は状況や気分や...

内容はタイトルそのまま、本当に好きなものって人に教えたくないよね、教える必要がないのかもね、ってものです。

自分で書いておいてなんだけど毎日ある程度読まれる記事だからこそ「へえ、そういう気持ちの人っていっぱいいるんだなあ」って静かに驚いてます。

ある程度この心理は普遍的なものであるのだなあと思う一方、今の世の中は「好きを仕事にする」とか「好きなことで生きていく」というスローガンがかなりの勢いで台頭している時代だと思います。

それは「好き」が必須になる、ということです。

僕らは「これが好きだ」というポジションをまず取る必要があって、動機の底には必ずと言って良いほど「好き」があって、むしろ仕事とか生活スタイルとか、そういう大事なものに「好き」が無いと、主体性や人生に対する真摯さの欠如と見なされてしまうこともある。

ところが、僕としては「好き」を知られるということはリスクである、という気持ちにも理解が必要だなと思うのです。「好き」は善性の概念なのだから堂々と掲げて良い、誰もが持っているべき、みたいな思考は少々独善的すぎるのではないかと。

好きという感情はもちろん大事だけど、好きなこと、大事なことは弱みでもある。

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好きと弱みは紙一重

理屈を説明しなくても、好きなことや大事なものが知られることはリスクである、ということは皆何となく心で分かってると思います。

それは「壊したらその人が一番傷つくもの」だってことを教えることであるから、とか、言葉にすればそんな感じでしょうか。

それを損なうようなことをすれば傷つく、怒る、悲しむ。

これが好きだ、これが大事なんだ、と宣言することは、しばしば弱点を教えることと同義になることがある。

もちろん、人の好きなものや大事なものを弱みと受け取り、攻撃の手段としてしまう人がいる、という前提を受け入れた上のことではあります。

理想を言えば、人の好きなものや大事なものを見て、それを壊したり貶したりしてアイツを傷つけてやろう、なんて思う人がいなければ良い。

でも世に蔓延るクソリプ、誹謗中傷コメントなどなどが尽きることはなくて、人が傷つくのを見るのが「好き」な人がいるし、自分の手で貶めてやったと感じることに誇りを感じる人がいるのも事実。本人に普通に落ち度があるケースが多いとは思うけど。

それでなくとも「人の不幸は蜜の味」だったりする。これは否応なくそう。野次馬根性とか、人の失敗や不幸を見て安心する心理ってどうしてもある。

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好きを武器にすることに対する忌避感

この記事で何が言いたいかと言うと、言葉にできないまでも、また、言葉にするほどのことではなくても、潜在的に、好きなこと、大事なものを晒すのが怖い、という人がいるだろうなということ。

もしかしたら本人も気づいてないレベルの怖さかもしれません。忌避感という言葉が重すぎるほどの忌避感。

その忌避感がどんな風に現れるかというと、「それ」が好きだってことは自覚しているけれど、例えばそれが作るものだったとして「それ売り物になるんじゃない?」とか言われるのが嫌だったり。

もしくは、それが知識だったりすれば、「発信すれば副業になるんじゃない?」って言われるのが嫌だったり。

そう考えると「好きなモノ」を武器にさせようとする言説、そそのかしに不穏を感じるってかんじでしょうか。

好きはただあるだけでは弱みになる、しかしこの時代において、好きは武器になる、そのどちらも言ってることは分かる。しかし弱みにするのも、武器にするのも何となく嫌だ。

だから黙ってる。放っておいて欲しいと思う。

「好き」も色んな言葉で表現できる。それは核なのかもしれないし、信仰なのかもしれないし、安定剤なのかもしれない。

言葉は同じでも、その概念の形は人によって微妙に違うから、大雑把な「好き」の乱用が気に食わない。

 

 

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