ドラマ『鈴木先生』に学ぶ、人が動くときに必要な論理の話

人が動くのに必要なのは感情か、それとも論理か。

人は感情を突き動かされることで動くのか、それとも論理的に納得したから動くのか。

どちらか一方が大事ということはないし、どちらも必要だと思うけれど、何となく僕の中ではこれまで、「感情」の方に重きを置いていたような気がします。

日常で触れるあらゆる情報に照らし合わせてみても、また自分の行動を顧みても、人は感情で動くもので、大変不合理な生き物だという認識が正しそうではないでしょうか。

しかし最近の僕は、感情より論理の方が大事だと考えるようになりました。

いや論理の方がとまで言うと強すぎるけれど、僕らは「論理に基づいてよく考えた上で、表れる感情を尊重すべき」だという考えが芽生えたのです。

感情を論理で評価する癖が必要、という感じでしょうか。

この感情は論理的に正当なものか?

この感情はフェアで、人に理解されるされるものか?

文明的な生き方をするためには、こんな点検をする必要があるのではないかと思ったのです。

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異彩を放つ学園ドラマ『鈴木先生』

鈴木先生のドラマを見たのが大きかったです。

アマゾンプライムビデオで配信されていたので、何となく見てみたら面白かった。

鈴木先生はこれまでの学園もののドラマの中では異彩だなんてレビューに書いてあったけど、実際に見てみると確かに、これまで見ていたドラマとは違うような気がしました。

クラスで問題が起こって、それを解決するという構図は一緒なんだけど、解決の仕方が、「論理」を軸にしているのが面白いと思いました。

学園ドラマのほとんどをチェックしているというわけではないのでイメージの話だけど、これまでの学園ドラマだと、「はじめは反抗的だった生徒が次第に教師の情熱に心を打たれ、良い子になっていく」というのがお決まりのパターンだった印象があります。

問題が起こるけど、教師は情熱と愛を持って根気強く生徒と接することで、生徒は本気で自分たちのことを考えてくれていると感じ、正しい行いをするようになっていく。

つまり、「感情」に訴えることで人の行動を変えてきたと思う。理屈抜きで愛情を持った教師を信頼し、ありていに言えば教師を好きになり、生徒の行動が変わっていく。

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鈴木先生はサイコパス?とはじめは思った

鈴木先生の場合、鈴木先生に愛や情熱がないわけでは決してないけれど、重きを置いているのは「論理」の問題のように感じるのでした。

ドラマの最初、小川蘇美という女生徒を半ば強引に自分のクラスに引き入れたことを同僚に詰られ、その場にいた女性に真意を訊かれたとき、鈴木先生は「実験」だと言いました。

小川蘇美がクラスのスペシャルな存在になる、自分の理想のクラスを作るのに必要なキーパーソンになるという言い方をします。

学園ものを見ているつもりの僕は少し驚きを感じます。

言い方は悪いですが、生徒を駒のように、カードのように扱っているように見えましたし、この鈴木先生というのはサイコパスか何かで、実はこの先生が故意に問題を起こすことでこのドラマは展開していくのだろうかと考えました。

案に相違して、鈴木先生はひたすら真面目に愚直に教職に取り組む先生でした。

鈴木先生は決して裏切らない熱血教師ではなく、「話が分かる先生」だった

学園ものの例に漏れず、子どもたちは鈴木先生の教えを真摯に受け取り、みんな人間として成長していきます。

中学生の避妊や性行為に関する問題は特にこのドラマでは中心に据えられる問題で、生徒が小学生と行為に及ぶという問題に始まり、最終回では、他でもない鈴木先生ができちゃった結婚をする件について、それぞれの意見を戦わせるという展開になります。

給食時には、人気のない酢豚をメニューから外すことに関することやマナーや正義の取り扱いについての問題が立ち上がり、生徒と対話を繰り返すことで、多様性や、集団の排他性というものに関する理解を深めます。

子どもたちと僕ら視聴者が鈴木先生に期待するようになるのは、生徒たちへの盲目的な愛でも信頼でもなく、「話が分かる先生」だというところです。

ちなみに、その話が分かる鈴木先生が小川蘇美をキーパーソンと定めた理由は、彼女が、論理的に成熟した生徒だったからです。

バタフライナイフを持っていたからと言って問題を起こした生徒とは限らない。

前回問題を起こしたから今回も問題を起こした人間だとは限らない。

小川蘇美が、クラスで感情で断罪しそうなところ一人踏みとどまって、決断を下さないという判断ができる生徒だということがドラマですぐに明かされますが、こんな生徒がクラスにとって必要だと考える鈴木先生はやはりロジカルな人間のように感じられます。

鈴木先生の教えによって生徒が身に付けるのは正しさではなく、フェアに考える力

鈴木先生なら、頭ごなしに感情で物事を判断して生徒を断罪することもないし、自分の考えを押し付けたりしない。だから話を聞く気になるし、話す気になる。

鈴木先生と一緒に出した答えなら、論理的にフェアなので納得できるし、その先の物事の考え方にもなるので、ただ過ちを犯さなくなるだけでなく、他者の考え方についても先生と同じようにフェアに考えられるようになる。

正しい行いをするようになるのではなく、「正しいこととは何だろう?」とそれぞれが考えるようになる。また、「この正しさは他の誰かにとって間違いかもしれない」という学びになっている。

ここに至れば、感情で動くということに関して、疑いを持ち、考えられるようになる。

感情が先生寄りになるのでも先生によって軟化するのでもなく、論理的に考えられるようになる(感情論で物事を判断せず、フェアに物事を考えられる)という行動の変化を描いた学園ドラマは本当に珍しいものじゃないかと感じました。

「多様性」は他人を認めるための言葉ではなく、「自分が間違っている可能性」を知るための言葉だと思う

フェアに考えられるようになった生徒はどうなるか

同じくプライムビデオで配信されている鈴木先生の映画では、久しぶりに母校を訪れた不良生徒(鈴木先生より体育教師を慕っている)に「鈴木先生に会いに来る生徒っているの?」というような嫌味を言われるシーンがありました。

その生徒曰く、鈴木先生は自分たちのような不良は相手にせず、良い子ばかりに目をかけていた。ところがそいつらは卒業したら音沙汰なしの薄情者なんじゃないか。人の評価というのは時間が経ってから分かるものだ。というような、痛いことを言われてしまいます。

そんな折、鈴木先生の学校の卒業生による殺傷事件が発生するのですが、このとき、鈴木先生が奥さんにこんな弱音を吐くシーンがあります。

白井っていう卒業生に言われたんだ。俺の教え子たちだって、どんな風になってるか分からない。俺は思いあがってるって。確かに誰も訪ねてこないんだ。実験とか言って、俺の独りよがりな教育方針に生徒たちを付き合わせてるだけかもしれない……

しかし、ドラマを含め、鈴木先生のこれまでを知っている身としては、先生の教育方針は少なくとも間違ってはいないと感じます。

映画の終盤にその気持ちを代弁してくれる生徒たちがいます。

前に卒業生の先輩が、言ってたことなんだけど、鈴木先生を慕っていた真面目な生徒が訪ねて来ないのって……。ずっと考えてたんだけど、鈴木先生を慕ってた生徒はみんな必死にそれぞれの場所で精一杯頑張ってるから、かもなって。

先生の教えを胸に、ね。

信頼は正しさの上にではなく、フェアに考える習慣の上に

僕らはただ感情に身を任せて動いたり喋ったりすれば良いわけじゃないし、自分が正しいと考える行いが必ずしも報われるわけじゃないです。

僕らは感情で動く生き物だという点はきっと間違いない事実で、ゆえに不合理な行動を取ることもあって、もちろん失敗もあるし、正しさを遂行できないこともあるし、相手の思う正しさを受け入れられないこともある。

正しさは逃げ水のようで、立場や状況によって簡単に歪み、決めつけた途端間違いとなります。

だけど僕らは常に何かを選び取らなければならないです。自分なりに何かを信じて、納得して、行動をしなければならない。行動を起こすと同時に、間違いを自覚しながら生きなければなりません。

多様性を受け入れるとか、他者と共存するというのは、このように難儀なものだと思うのです。感情だけで物事を決めつけられたら、どれだけ楽でしょう。

しかし僕らが文明的にもっと発展するには、感情で動くというエラーともいえる脆さを受け止めた上で、フェアに考えるという癖が必要なんじゃないか。

フェアに考えられるという能力は、この情報溢れる時代において、情熱や愛情と言った曖昧なものよりもずっと、大きな信頼に繋がるものなのではないかと思うのです。

 

ドラマ『鈴木先生』に学ぶ、人が動くときに必要な論理の話(完)

 

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