純粋な消費なんてもうなくなってしまう

まちづくりを考える

総クリエイター社会とか言われることがありますよね。

それがどういうことなのかというと、もう純粋な消費なんてほとんどなくなってしまった、もしくはこれからどんどんなくなっていくということ。

ほとんどすべての行動が消費行動ではなく、創作行動に繋がっていく。

その予想が正しいとすれば、ただお客さんの消費行動だけを期待するようなものは今後どんどん見向きもされなくなる、ということだと思います。

僕らが作るモノやコトは完成品でありながら同時に誰かのクリエイティビティを刺激する「素材」でなければならないし、誰かの創作に付けたされる「パーツ」である必要がある。

このブログはまちづくりと創作が両輪です。だから、まちもそういうこと意識しないといけないと思うんだよね、というお話しを書こうと思います。

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インスタグラムに投稿される食事/インスタ映え

分かりやすい例を挙げるとすれば、例えば食事があります。

食事をするという純粋なものに近かった消費行動が、スマホの画質向上、インスタグラムなどのプラットフォームの出現で、「記録+公開」というクリエイティビティに結びつくようになりました。

食事に限らず、現在ではあらゆるものがその人の生活スタイルのパーツになります。

食べるもの、身に付けるもの、鑑賞するもの、訪れる場所。

それらはすべて記録もしくは発信ありきとなってきているのではないでしょうか。記録もしくは編集→発信に相応しいかどうかで、それを消費するかどうか決めてはいないでしょうか。

もちろん、それを近しい人に見せるだけに記録するか、世界中に公開するために編集までするのかという違いはあると思います。

しかし、意思一つで誰もが自分の消費活動を人に見せられる形にすることができる時代です。

そして作り上げたもの、記録したものがその人のオリジナルの価値になりやすい時代です。

このことをよく考えるべきなんだろうと思います。

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仕事でさえもその人の人生を彩らなければ消費行動

昨今では、仕事でさえもその人の人生の有意義なパーツにならなければただの消費活動となってしまい、魅力を感じられなくなっているのではないでしょうか。

クリエイテビティと結びつかない純粋な消費が限りなくゼロになっていくのであれば、ただ時間と引き換えに賃金を受け取るだけの仕事も広義での消費活動となってしまう。

それが自分の人生において取り立てて記録する必要のないと感じる仕事であったり、人に見せる必要のないと感じる仕事であれば、創造社会においては魅力の乏しいものになってしまうのではないか。

労働において、お金が得られれば良い、生きられれば良いという領域はもうとっくに通り過ぎていると思います。

まちは何を作り、発信するべきか

地域も消費者ではなく、来る人来る人何らかの創作者なのだと心得るべきだと思います。

その人は写真を撮ってインスタグラムに上げる人かもしれない、ブロガーかもしれない、動画のクリエイターかもしれない、作家かもしれず、研究者かもしれない。

プロアマで判断する時代は過ぎ去りつつあります。誰もが深度や意識に違いはあれど、得たものを何らかの形で記録しようとするクリエイター。そういう時代なのではないでしょうか。

地域のサービスはもはや「お金を落としてもらう」という意識で作る時代ではないと思います。

素材を持ち帰り、それぞれの文脈でクリエイトしてもらい、それぞれの人生のパーツとなってはじめて価値が生じるのではないでしょうか。

そんな風にまちづくりを考えています。

 

具体的にはこんなことしてます!

 

 

 

 

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