小説を書く人にとって動画編集はとても勉強になります

表現力の向上を目指して

動画編集は小説を書く上でとても勉強になります。

動画って、それぞれのカットに意味を込めます。

「このカットはこのモノをよく見せるため」

「このカットは動線をわかりやすくするため」

「このカットは場所の全体を示すため」

基本的に無駄なカットはないものではないでしょうか。

もちろん技術や知識の不足から無駄が生じてしまうことも、不足が生じてしまうこともあるに違いありませんが(この無駄や不足って自分じゃ気づきにくいんですよね……)、それでも動画撮影は比較的無駄や不足が生じにくい表現だと感じます。

編集を念頭に置けば、撮影ボタンを押す前に必ず意図が芽生えますからね。無駄なカットはできるだけ撮りたくなくなるものです。

転じて文章はどうだろう。無駄、不足が生じやすい表現ではないでしょうか。そこに意図はあるんか?

その問いに対して、「動画を撮る感覚」というのは役に立ちます。

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文字はすごいよ。色感覚、時間感覚、音感覚などすべてその場で編集できる万能カメラさ!

文字表現というのはすごいものです。

これも動画を撮影していて改めて分かったのだけど、文字を使えばあらゆる編集がすべてその場で、思った通りにできるのです。

例えば動画であれば、「ここでこのカットを巻き戻しして、別アングルから眺め、一度見逃した真実を明らかにする」という表現をするとき、なかなか面倒な編集作業を必要とします。

が、言葉であればそう書けば良いです。

色感覚や音感覚となると少々高度ですが、できないことはありません。もちろんそのまま書いても良いです。

音感覚をそのまま書いた例文を示します。

娘と行った遊園地は日曜だというのに閑散としていた。
場所自身、子供やカップルの声、走る音、衣擦れ、アトラクションの数々からこぼれる悲鳴で賑やかな園を夢見ていたはずだが、そこは、1キロ近く隔てた北門と南門のそれぞれに設えられたスピーカーから流れる園のテーマ曲と思しき電子音の連なりが、娘の頭上で恥ずかし気にぶつかりあい、落ちて、それから娘の小さな足音についてきた。卑屈な顔で。ひび割れた声で。だから娘は怯えて、夜には熱を出した。 『走る微熱』

音の表現はそのまま書いても良いし、言葉を選んでリズム感を作っても良いです。具体的には句読点を少なくして、意味よりは語呂の良さを重視していくなどができます。反対に遅くすることも可能です。

色も同じように、実際に見せたい色を文中に出しても良いし、色味を植え付ける言葉を選んで全体的な文章の色味を決めても良いです。

このように、文字を連ねるという作業は(小説のような表現では)もう最初から編集みたいなところがあって、その表現は実に細かく、かつ思い通りに設定できる。

だからこそ動画での編集は勉強になります。しようとしている表現に対し自覚的にならざるを得ないし、それが誰の目から見ても明らかだから、「そもそも思い描いている景色」というものを見つめるのに役立ちます。

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文字・言葉を使う表現というのは、いくつもの無質量カメラを持って行うようなものだと思うよ

もしカメラがとても小さくて(もしくは質量がゼロで)、撮影ボタンとか設定の変更とかする必要がなくて、任意の場所にいつでも取り付けらるとしたら。

表現したいものに対して、とても多くのアングルから、近くから遠くから、過去や未来を行ったり来たりして、あることないこと、撮影すると思いませんか。

それが僕らの目で、意識でしょう。

つまり言葉を扱う表現というのは、自由すぎて、勝手すぎて、ゆえに難しい。ポイントがズレやすいし、無駄が多くなりやすい、と同時に、不足が生じやすい。

つまり、必要なところは少なく、不要なところが多くなりやすい。洗練された文章を作ること、表現したい映像を言葉で創造することはとても難しい。

だから、例えば小説のようなものを書く人にとって、動画編集はとても勉強になります。

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