現状の小説の課題は、「作為をどう隠すか」である

自分で考える創作論

理屈から言えば、僕の小説の能力は日々向上しているはずです。

アスリートは日々のトレーニングにより能力を上げ、成績を上げ、理屈で言えば昨日より今日の方が、今日より明日の方が上達しているはず、ということに納得できるのだから、小説に関する能力も、日々のトレーニングに裏打ちされた上達があって然るべき。

ただ、小説の場合上達が分かりにくかったりします。スポーツなどの世界であれば、できなかったことができるようになったとか、勝てなかった相手に勝てるようになったとか、タイムや飛距離と言った数字に成果が表れます。

しかし小説はどうでしょう。上達を数値化しにくく、絶対化しにくいから、いまいち能力の向上を客観的に掴めない。

小説に限らず芸術分野はいずれも同じだと思いますが、結局のところ、「自分が目指す美」「自分が思う強度」「自分が感じる気持ちよさ」に従って、またそれらと照らし合わせながら、日々自分の変化を観察していくしかないのではないでしょうか。

さて本題。現状僕が強く感じる小説の課題は「作為をどう隠すか」です。

過去にも同じようなことを書いた気がするので、成長してねえなって証拠でもあるかもしれないのですが、最近この「作為」について改めて考えたので、ブログ上でメモしておきます。

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作為が見える文章はなぜダメなのか

好みの問題なのでダメと言い切ってしまって良いのかどうかわからないけれど、個人的にはダメだと思うんですよね作為が見える文章って。

なぜなら、作為が見える=作者の顔が見えるってことだから。

作者がこう思ってほしいんだろうなとか、作者ここの表現自信あるんだろうなとか、そういう情報って本当にいりません。

小説に関して言えば、こういう意図が見え透いている文章を読み続けるのは難しいです。

冒頭では小説は上達が分かりにくいって言いましたが、過去に自分が全力で書いた文章を「読めたもんじゃねえな」って思うようになったら、それはかなり確度の高い上達の証だと思います。

僕は上達している。向上している。過去の自分の作品の悪いところが見えるようになったから。

しかし、ここでも疑う余地があるとすれば、それはただ単に好みが変わっただけなんじゃない?って疑惑があります。しかしそんなこと言ってるとキリがないのでとりあえずここでは飲み込んでおきます。

過去の僕の文章は今の僕の感性にとって稚拙である。

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作為の隠し方

作為をどう隠すか。それが課題です。

例えるならばこれは、「隠し味が分かりやすすぎる」みたいな問題なわけです。

明らかにコーヒーの味がするのに「今日のカレーには隠し味にあるものをいれました!何をいれたでしょう」って言われたら言葉に詰まるじゃないですか。え、隠れてないけど、もうコーヒーの味しかしないけどってなりますよね。

いやもうこれカレーの良さを損ねるレベルだろ、邪魔しちゃってるだろ、ってこともあるわけです。

この例で言えば、作為の隠し方の一番簡単な方法は、「控え目にすること」でしょうか。

僕らつい「隠し味」のつもりで、だけど「隠し味の強さに頼りたくて」入れすぎてしまうものだと思います。隠すつもりが、知ってほしくて、つい強調してしまう。

小説の文章で同じことが起こると致命的です。タイトルに、表現に、目線に、描写に、これでもかと「意味のありそうなこと(というか明らかに作者が意味を込めた部分)」を取り入れてしまう。

隠せ隠せー、見え透いていると底が浅いと思えてしまう、だけでなく、ありふれたストーリーをいたずらに意味深に、感傷的に書いてるだけのポエムもどきみたいになる。これは読むに値しないです。

ちょっと抽象的なままここまで書いてしまったので、次の投稿では僕の作品の描写を引き合いに出しながら、もっと具体的な話をしてみますね。

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