「そうきたか!」と「そうこなくっちゃ!」

自分で考える創作論

宮部みゆきがある本で、小説の筋には「そうきたか!」と「そうこなくっちゃ!」がある、というようなことを書いていて、以来創作(僕の場合は小説の執筆)をするにあたって強くこころに刻んでいることの一つになっています。

強くこころに刻んでるというわりにうろ覚えなのですが、はて言っていたのははたして本当に小説の「筋」のことだったか、それとも「結末」だったか、手元にその本がないので(ないのかよ)判然としないのですが、いずれにせよ小説を書くときには常にこの二つの選択が目の前に突き付けられているなと感じます。

そう、「常に」この二択が突き付けられている。冒頭、二行目、三行目。最後まで全部。

目の前は常にルートが分岐していて、一方は見通しがよくなんなら見覚えもあり、もう一方は藪の中を突き進んでいくようなもの。先がどうなってるのか、何が出てくるか自分でも分からない。

決断の連続です。そしてその決断の正しさがいつ分かるかも分からない。創作が苦しいのは当たり前です。

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ただの未知ではそうきたか!を作れない

しかしよく考えてみれば、そんな単純な話でもないのです。

一方がよく知っている道で、もう一方が藪の中というのは例えとして適切じゃありません。

なぜなら、「そうこなくっちゃ!」と思うためにはたくさんの経験が必要であるのは言うまでもないけれど、「そう来たか!」という感想を得るためにもたくさんの経験が必要だからです。

そうきたか!は知り尽くした後の驚きであり、ただの未知ではないということ。

ただ先が分からないのではなく、驚きと好奇心を掻きたてる未知でなければならない。

では驚きと好奇心を掻きたてる未知とはどんなものなのかと言うと、「予想可能である」ということが大前提です。

矛盾するようだけど、僕らは間違いなくただの未知やただの予測不能を求めていない。

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何通りかの揺れる未来、突きつけられれば納得できる展開

「そうきたか!」と「そうこなくっちゃ!」の二つ選択肢があると知っていても僕らがなかなかそういう展開を作ることが難しいのはなぜか。

その展開を見せた瞬間、受けとり手に「何通りかの揺れる未来」を予測させて、その上でどちらの展開も突きつけられれば納得でき、かつ面白い!と思ってもらえるようなルートでなければ「そうきたか!」とはならないからです。

あくまで「ルールの範囲内で」意外な展開なり、結末でなければならないのです(小説の場合、ルールは読者との間に生まれる不文律)。

受けとる側の頭の中に優れたルートを発現させ、思わず来た道を振り返ったり、その場でしばし逡巡させたりする、擬似的な決断を強いる展開でなければならない。

先を見ても来た道を見ても文脈にそぐわないただただ予測不可能な展開であれば、なにこれ?となるのが普通であって、心情的には興醒めです。

「予測不可能!?」みたいな惹き文句が使用される小説の帯とか映画の宣伝とかあるけれど、人が求めるのはあくまで「そうきたか!」であって、決してただの未知ではない。

この話、スポーツの例え一つで分かることだったな

ちなみにこれは保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』にも書いてあることでした。

『書きあぐねている人のための小説入門』は何度も読んだけど、保坂和志の小説を読んだことがない
僕が小説を書こうと思ったきっかけの本でもあり、実際書きあぐねる度にページをめくることになる『書きあぐねている人のための小説入門』を僕が気に入っている一番の理由は、多分作者の名前「カズシ」が僕と同じだからだ。 書きあぐねている人のための小説入...

オリジナルな話題だと思ってここまで書いてたんですけど、結局受け売りだったなあ笑

保坂和志は話の展開をスポーツに例えていました。

9回裏、ツーアウト満塁、一打逆転のシーンで、急にバッターが投手を殴りつけ勝利を得ても誰も納得しない。予測不可能には違いないけど、これじゃお話し(ゲーム)にならない。

普通の展開で言えばストレートど真ん中で三振、もしくは単打で一点。もっと劇的な幕引きを望むなら逆転満塁ホームランを予測する人もいるかもしれない。

でもワイルドピッチの可能性もあるし、セーフティスクイズをする可能性もなくはない。たぶん積極的には予測しない展開。だけど目の前に突き付けられたら納得するしかない展開。これが「そうきたか!」なんですよね。

ああこの例え一つで分かることだったのか。分かりやすいですよね。

「あくまでルールの範囲内で」「予測可能な範囲で」かつ意外な展開でなければならない。

ただ予測できない創作物に興味はない。そんなのは人生だけで十分。

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