語りと異常のはなし/語られる時点でちょっとおかしい

発想と行動を記録する

何となくの話だけど、それが良いことであれ悪いことであれ、「語られる時点で異常」というのはあると思う。

例えば「足の親指が痒い」というのは異常な状態ということで口に出すのは自然なことだけど、同じくらい「足の親指が痒くない」と口に出すのも異常事態を示しているということ。

屁理屈レベルの話だけど、「足の親指が痒くない」とわざわざ口にするのは、「それまで足の親指が痒い状態に悩まされていたけど今はそれがない」という主張であって、やっぱり言葉の意味それ以上に、異常事態について語ってしまっている。

だって、だいたいの人はそもそも「足の親指」に意識なんて払ってないはずだから。

こうして話題に出した時点で、もしかしたら何人かは言われてみればムズムズするなんてこともあるかもしれないし、当然、いままさに水虫中の人もいると思うから全員とは言わないけど、基本的に「足の親指」のことなんて改めて考えたことがないというのが普通だと思うのです。

足の親指じゃなくても良くて、「鼻の通りが良い」とか「喉が痛くない」とか「肩こりがない」なんてのも、わざわざ口に出すことそれ自体が「異常」の空気を持っていて、ほんとうの正常や健康というのは何も感じず意識するまでもない状態にある。

何を異常と見て口に出すかと同じくらい、何を普通だと見て口に出すかということにも、意味が生じてしまうということ。

肉体的なことに限らず、あらゆる状況で同じことが言えるのではないかと思います。

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自由の素晴らしさを語っているうちは自由じゃない説

例えばライフスタイル。

最近では「自由な生き方」とか「好きを仕事にする」みたいな内容が語られることは多いと思うけど、ことさら自由について語るということ自体に意味が生じてしまっていて、それだけ、自由に生きることや好きを仕事にすることはまだまだ(語弊がある言い方だけど)異常である状態だということを言っているように感じる。

また、語る方も「自由に生きている感じ」とか「好きなことを仕事にしてる感じ」を自覚しているうちは、まだまだ本当の意味で自由ではないと言えるんじゃないか。

いや心を病んでるとかそういうことじゃなくて、また分:かりやすいから体の話に戻すけど、例えば風邪をひいた直後は「鼻から息が吸えるって素晴らしい!」とか「普通に食べ物を食べられるって素晴らしい」とかって実感できるけど、完治してからもその感動を維持し続けるのは難しい。

もう一年以上風邪ひいてないわーって人は、鼻づまりの辛さとか喉が痛くてずっとイライラしてる感じも、それが治ってめっちゃスッキリしてる感じも忘れてしまって、鼻にも喉にもなんの違和感もない、あることを忘れる、くらいが本当の意味で正常だと思う。

そういう意味で、「自由に生きている感じ」や「好きなことを仕事にしてる感じ」を常に意識的に抱えている時点で、病の余韻があると思うし、実は全然健康じゃない状態なのかもしれない。

自分を顧みて、そんなことを思うことがあります。

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悪いニュースが報道されなくなったときが一番怖い

「社会」に焦点を当てはめて考えてみても、同じようなことが言えると思う。

毎日悪いニュースばかりで嫌になってしまうけれど、それは足が痒いときに痒い、喉が痛いときに痛いと言うのと同じことで、口に出すのはおかしなことじゃない。話題としておかしくないし、問題視するのも変じゃない。

反対に良いニュースが話題にのぼる状況になれば、それこそ危機感が必要なのかもしれません。

振り込め詐欺を事前に食い止めたとか、通りすがった人が事故車内の人を救出したとか、木から降りられなくなった子猫を救ったとか、口に出すまでもない程度の善性をことさらニュースにするのは、やはり悪いニュースを口にするのと同じ程度の異常さがあるのだと思います。

素直に見れば、良いニュースはただ良いニュースとして報道しているだけなんだけど、「何を良しとするか」という判断の時点で裏側にある異常事態が透けて見えるだろうということ。

善きこととして認められる事柄の程度が低くなるということは、同時にそれだけ「異常」を語ってしまっている。

こんな風に、そのうち「こんな話題までさも素晴らしいことかのように報道される時代になっちゃったのか」という感じになるかもしれなくて、その状況の方が素直に悪いニュースを伝えてる時代よりよっぽど異常なんだろう、と思う。

逆説的な話だけど、悪いニュースが流れなくなったときが一番怖い。戦時中とかは良いニュースでいっぱいだったのかな。

感謝の念を口に出すということそれ自体

さらに応用で、思いつくままに書くから前後をあまり考えないでほしいんだけど、僕個人的には人に感謝し続けるってのも難しいと思ってて、「感謝」をことさら口にする人にちょっと引くという傾向があります。

そりゃ人の好意にありがたいなって感じる瞬間はたくさんあるし、自分が生きているのはまるっと周りの人間、引いては環境や自然やご先祖様のおかげだから全てのものに感謝とかっていう「理屈」は分かるんだけど、そのありがたさはやっぱり「有難い」とは言え「普通」のことであって、本当に心から感謝し続けるのは難しい。

「運悪く足の親指が痒い人」が近くにいでもすれば、「おお自分の足の親指は痒くない。ありがたいことだ」って思えるかもしれないけど、そうでもない限り「お母さん僕の足の親指を痒い風にしないように産んでくれてありがとうございます」って思わない。

ちょっと茶化して「足の親指」とか言ってるけど、自分の幸福とか置かれた場所のありがたさ、出会えた人のありがたさって、それ自体を意識し続けるのはやっぱり難しいし、いつもありがたいと言ってるのは正直不自然だと思う。ありていに言えば異常だと思う。

穿った見方をすれば近くにいる「運悪くそれが得られなかった人」と自分を比べ続けているんだろうし、ある時点から、「理屈で理解して言ってるだけ」の領域に足を踏み入れているのではないか。

もしくは言ってるうちに本当に感謝の念が湧いてくる。つまり言い聞かせているという状態。

それはそれで色々と良いことかもしれないし、忘れがちだからこそ意識的にやらなきゃいけない、口に出さなきゃいけないのが「感謝の念」なんだろうとも思う。

感謝されたら悪い気はしないだろうし。

でも「感謝されたら人は悪い気がしないから感謝を口にする」とか「親に感謝してる自分を自覚する」というのはいかにも処世術めいていて、そういう風に感謝の念を使わなきゃならんのもなんか嫌だなと思います。

そういう感謝の念とかは、たまに思い返せたときにこっそり「ジーン…」として何となく自分の燃料にしとけば良いんじゃないかなって思う個人的には。

語りと異常のはなし/語られる時点でちょっとおかしい(完)

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