谷崎潤一郎『細雪』/雪子の陰翳を担うトラブル(下痢)が示す日本的な美

好きな作品と雑談

『塩一トンの読書』という本の中に

作品のなかの「物語」と「小説」―谷崎潤一郎『細雪』

という章がありまして、このブログで紹介したい考え方があるのでまず該当箇所を引用させてもらいますね。

雪子についての叙述が、ドラマ性のうすい、日常のこまごました出来事や人物をとりかこむ事象の、どちらかというと平凡な浮沈(「繰り返し」の手法と秦恒平氏が谷崎の『芸談』、『陰翳礼讃』を引いて指摘した)を主とする平坦ともいうべき「ものがたり」的な作法にしたがって話がはこばれる反面、妙子については、男から男への遍歴につれて変容し、水害、板倉の死、赤痢、出産につづく赤ん坊の死という、不可逆的な時間の上に設定される、高低の多い、ドラマ性を核とした構成がみられる。この二つの作法をないまぜにして物語を進行させている点に、私は谷崎の非凡な才能を見るのである。 河出文庫『塩一トンの読書』108p

『細雪』の舞台は昭和初期の大阪、上流中産層に属する、つまりそれなりに名家と言って差し支えない蒔岡家と、激しく移り変わる時代を背景に、蒔岡家の4姉妹を通して繰り広げられるお話しです。

主に焦点を当てられるのは三女雪子と、四女妙子の結婚事情についてです。

雪子が日本的(東洋的)な「ものがたり」を担っているとすれば、妙子は西洋的な「ストーリー」を担っている、という工夫が『細雪』にはあるという見方があるのですね。

 

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雪子は日本的(東洋的)な「ものがたり」を、妙子は西洋的なストーリーを担うってどういうこと?

雪子は日本的(東洋的)な「ものがたり」を、妙子は西洋的なストーリーを担うってどういうことでしょうか?

雪子も妙子も蒔岡家においてはかなりのトラブルメーカーです。

でも、トラブルメーカーと言うには毛色が違いすぎる。

『細雪』は雪子にまた縁談が来てるとか来てないとかって話題から始まります。

雪子が見舞われる陰性のトラブル

まず雪子の物語に焦点を当てると、雪子はもう三十歳になるのに縁談が決まっていない。美人だし、蒔岡家だって(全盛ではないとは言え)それなりの家だしそれなりに話はあるのですが、ずるずると結婚していない。

昭和初期の話で、しかも家柄がどうこうという意識も今より強い時代だと思いますから、おそらくいつまでも結婚しないというのは厄介な問題だったっぽい(今とて、特に田舎にいると何だかんだ結婚が女のゴールみたいに考える世間の目はあると僕は感じるので、当時はいかほどだろう)。

しかし雪子はなかなか決めない。

作中では結局4つくらい縁談を断って、最終的に婚姻を決めた相手の元へ向かう汽車の中でも下痢が止まらない、というラストで締めくくられる、なんというか陰性なトラブルを招く女性です。そういう意味で日本的(東洋的)なものがたりを担う女性だと僕は解釈しています。

なぜ陰性のトラブル=日本的なのか、という話はあとでします。

妙子が見舞われる陽性のトラブル

一方末っ子の妙子は現代的な女性として描かれており、招くトラブルも駆け落ちがどうの、(家的に)望ましくない相手と結婚するのしないの、かと思えば前の彼氏とまだ切れてなかっただの、そりゃもう気を揉ませるったらない。

恋愛事情に関わらず、自分でビジネスをやっていたり、留学がどうこう言ってみたり、大病(赤痢)を患ったりと、派手なエピソードに事欠きません。

雪子と対比すると時代とか家とかどうでもええかなー、って感じの女性だってことが分かる。この点が現代的な女性、という印象を作っている。

世は移り変わる、したいようにする、そのために捨てるものは捨てる。

どの時代もたいてい見ようによっては激動の時代であって、令和に突入した今だってそうですよね。働き方や結婚観は時代と共に価値観が揺れ動く二大巨頭といってよくて、現代的な、という印象を抱かせる人は伝統や旧習を軽やかに捨てていく身軽さがある。

雪子がずるずると決めない女だとしたら、妙子の話は決まりすぎてしまっている。

トラブルの輪郭がはっきりとあからさまになっている。

そういう意味で陽性のトラブルを抱える女性であり、陽性=西洋的なストーリーを捉えています。

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細雪の主人公は雪子なんだ

小説は主人公に大きな災難が降りかかり続けるものだと思います。障害に次ぐ障害、困難に次ぐ困難。

しかし『細雪』というタイトルからも分かる通り、この小説の主人公は「雪子」であって、彼女は彼女でトラブルメーカーではあるけれども、妙子に隠れてなんとも陰性なトラブルを引き起こし続ける女性です。

お話しとしては妙子の方が劇的なんだけど、細雪の主人公はあくまで雪子。

ではなぜ陰性のトラブルを背負わせた雪子が担うのが日本的な「ものがたり」だ、なんて言うのか。それは例えば『陰翳礼讃』などを引き合いに出して考えていきます。

『陰翳礼讃』/日本的な美は陰翳にあり?

谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』において「日本的な美」を語ります。日本という風土に根付く美的感覚は陰翳の妙にあるというようなことが書いてあります。

例えば便所も清潔一辺倒でああどこもかしこも真っ白である必要はないだろう的なことをはじめの方で熱く語っているのを思い出します。

丁寧に磨かれた木製の便器、ささやかな明かり取りと電灯の、薄暗くてひっそりとした静寂空間。用便は一種の儀式であり、どこもかしこも白く明るい開けっぴろげな空間はあまりに西洋的で居たたまれない、みたいなこと。

合理ばかりで何もかもを作っては、その土地本来の美しさが損なわれたりするのではないか、もっと日本的な美を追求したら、どんな製品ももっと我々に適した進化を遂げていたんじゃなかろうか、とか、そういうこと。

『陰翳礼讃』についてはぜひ各々読んでみていただきたいのですが、このような思いのある谷崎潤一郎が、絢爛な4姉妹のうちの雪子を主人公にしたことはごく自然なことで、彼女に陰翳を担わせたことにも納得感があります。

また、「陰性のトラブル」とこの記事では表現してきましたが、「陰翳を担うトラブル」と言い換えれば、それは日本的な美を示すものである、という風に解釈できると思います。

『細雪』の「ものがたり」と「ストーリー」が作り出す美しい一枚絵

『細雪』において、雪子が「ものがたり」を妙子が「ストーリー」を担っている。それぞれ便宜的に、陰性のトラブル、陽性のトラブルという風に分けました。

そういう見方を肯定した上で改めて作品を読んでみると、確かにそういうところあるなあと感じるはずです。そしてこういう見方を獲得してから『細雪』という小説を読めば、谷崎潤一郎のすごさというのも分かってくるというものです。

巧みなストーリーテリングと緻密な描写を織り交ぜながら、時代の空気をまとった話し言葉を差し込み分かりやすくお話しが進行していく。絢爛さとそれらがゆるゆると解体されていく儚さ。

物事が終わること、始まることの嫌さ、というか寂しさ、その気持ちに不快さ、不安さ(下痢のような)を乗せることで逆説的にきたる運命の脆弱さを示し、後ろ暗い愉悦の感情をくすぐる独特な展開。

このように明暗を用いて美しい一枚絵を描き上げることに関して、『細雪』は非常に巧みで、憧れずにはいられない作品です。

『陰翳礼讃』と結び付けて考えすぎるのは谷崎潤一郎の本意なのかどうかは分かりませんが、その構成と筆致に触れ、むしろ「陰翳」の方に焦点が置かれていると感じれば、ちょっと古風と言っても良いほどの日本的な美や気質に意識が向いていることが分かります。

ストーリー過剰な「いま」が損なう生成りの陰翳について

さて、少し現代の話もしたくてこの記事を書きました。

個々人が発信し、メディアとなり、エンターテナーとなりやすい昨今、つまり個人の名で世に出る機会が多くなりつつある現在、すべてを詳らかにするとか、白日の下に晒すというスタイルが一般化しつつある、と感じることがあります。

つまり、「陽性の出来事」です。センセーショナルだったり、ニュースだったり、華々しかったり。

ごく一部の選ばれた人間が脚光を浴び、その他は誰にも知られない人生を送る、というような、ある種自然な時代が少しずつ様変わりして、多くが何らかの形で発信をし、表現をする時代になった。

ブログ、各種SNS、動画、などなど、媒体は今後も増えていくだろう。

テクノロジーの進化は陰翳を失くし、均一できめ細やかなライトを人類に提供する。その気になれば、すべての人が日なたに顔を出すことができるし、これまで存在を知らされていなかった人の「顔」がエンターテインメントになる。

きっとこの爽快な気分の裏に宿る不安の感覚は、『陰翳礼讃』において谷崎潤一郎が日本的な便所と西洋的なトイレで例えていたようなことと重なります。

合理性や機能性において確かにそれらは自然に適用されるものかもしれないが、画一的で洗練された解に迎合しつづけると、陰翳を重んじるという日本的な「気質」や「形」を蔑ろにするものになりかねないという懸念がある。

あまり日本的とか東洋的なものを無暗に大事にしすぎるのも問題だけど、その反対も然り。

僕らが下手に語ろうとすればどうしても妙子のような「ストーリー」を作ってしまいます。

人の目を惹くような、噂になるような、共感されたり同情されるような、喜びも、悲しみも、派手であったりセンセーショナルであった方が良い、と思ってしまう。失敗も恥もどうせなら大きい方が良い。誰にも気付かれない失敗も、誰にも責められない恥も、目立ってなんぼの世の中では無価値になり、無価値ゆえ、無意味になる。

僕らは常に「語るに足ることか?」「それは人の注目を引くか?」という視点で人生を眺め、トピックを手がかりにして、自らの人生を作り上げて行く。

気持ちが良い反面、ストーリー過剰な今に慄いてしまうことがある。

本当はくっきりもはっきりもしていない僕らの人生を「ストーリー」だけで語る

自らの人生を一つのストーリーのように扱い、出来事に意味を見出しながら作りあげていくことは悪いことだと思っているわけではありません。

何を懸念するかというと、『細雪』における雪子の人生のような、陰性な、取り立てて人の目を引かないエピソードや、派手でも悲劇的でも大事でもない出来事に対する陰性な出来事への感受性の喪失です。

細雪における「ものがたり」に対する神経の至らなさです。

僕らの人生は自分史を作ろうとしたときに特筆すべきようなことばかりでできているわけではありません。

人に話して面白がられるようなことばかりでも、ドラマになるような波乱万丈もそうそうあるわけじゃない。

何となく僕らはキャラクターとして存在しなければならない風潮があるけれど、実際は過剰にキャラクタライズされた人格なってもっておらず(雪子の性格もなんかはっきりしなくてちょっとイライラするんですよね)、それは作られるもののはずです。

実際は毎日、人に話せば「なんだそんなこと」と言われるようなトラブルに見舞われてうまくいかなかったり、羨ましがられることのない幸福に満足したりしながら生きてる。

陽気な気分のときもあればドロドロと無気力なこともあって、作り物の「お話し」の人間のように「あの人はいつもそう」というものなんて持ってないし誰に聞いても「あの人はこういう人」と一言で語れるような人格なんて多くはもってない。

そういうものに対する注意や観察を怠れば、僕らの人生はかえって薄っぺらくなってしまうのではないか。

『細雪』が妙子の波乱万丈を語るだけであれば傑作にはならなかったと僕は思うのだけど、それはつまり、そういうことなんじゃないか。

東洋と西洋、液体と固体の文化

これまでちょいちょい日本的(東洋的)なものがたり、西洋的なストーリーと言ってきました。そしてそれぞれ「陰性なトラブル」と「陽性なトラブル」という風に分けてみました。

ところが今更ながらこの感覚が伝わりきっていないと感じるので、さらに付け加えて、「液体と固体」という見方で東洋的なものがたりと西洋的なストーリーの違いを考えたい。

それは例えば医学に例えると分かりやすいかもしれません。

西洋的な病というのは、症状に対してはっきりと病名がついたり、数値が基準より高いとか低いとかって診断されて、異常、正常、境界という風にくっきり分けられます。区分けがされ、区別され、ブロックで管理、理解される、「個体」な文化です。

一方東洋医学では冷えを未病として扱ったり、ほてりや食欲不振と言った西洋でいう病以前の変化や出来事に対して、「科学的エビデンスに則った治療薬」以前の植物や鉱物で体調と整えようとしたりします。一連の流れ、病以前の予兆が次第に大きな出来事に発展していく、という意味で「液体」な文化です。

世の中の多くは見えないところに「流れ(液体)」があり、表だって、形となって出てくる「芽生え(個体)」がある。

「病」然り、「農作物」然り。なんでもそう。例えば学問も毎日の積み重ね(流れ)がある日試験(結果)として実を結んだりする。

『細雪』で婚約者のもとへ向かう雪子が見舞われるのは「下痢」で、妙子がかかるのが「赤痢」という点にも、「ものがたり(液体・陰性)」と「ストーリー(個体・陽性)」の違いがあるのは面白いです。

下痢は隠そうと思えば隠せる不調レベルのトラブルですが、「赤痢」とはっきり病名がついた妙子は立派な「病人」になります。

繰り返すけど、この『細雪』という物語において主人公に据えられているのは雪子なのです。

流れを観察し、流れを洗練させる営みも尊く美しい

さていい加減終わります。

この時代、人の目を引く出来事や、面白がってもらえるような経験、取りたてて話して聞かせるようなストーリーを持っていない自分の人生は大したことがない、劣っている、と感じるような人が増えるのではないか、と思います。

少なくとも僕はそう考えてしまうことがあるんですよね。自分ってつまらないヤツだなと。

成果に結びつかなければ無意味なんじゃないか、人の目を引く失敗もできない自分は何の価値もないんじゃないか。このまま何も成し遂げられず、誰にも認められずに終わる人生なんじゃないか。

「成功」とか「達成」が得られない人生は惨めではないか。

頭ではこの考えを否定し続けていますが、他人の達成や成功を眺めるにつけ、自らを情けなく感じてしまうことはどうしてもあるものです。

多くが「個人として成る」ことをやんわり強いられている時代だと思います。それはそれぞれが「キャラクター」となって「ストーリー」を紡ぎ、人に見せることを指します。

今現在「発信」や「表現」をしている人はこのことを強く感じていると思います。ストーリー過剰な時代。

しかし、僕らの「お話し」の厚みは「流れ」と「芽生え」の連続でできてる。

特に日本においては「流れ」の方にこそ精神的な親和性がある、かもしれない。

『細雪』は少なくともそのように構成されており、今なお読み継がれる美しい小説として盤石な位置にいる。

豊かな芽生えだけでなくむしろ豊かな流れの方こそを強く意識することで、僕らの人生は美しくなるのではないか。

どれだけ豊かな「流れ」も、誰にも注目されない、話してきかせても面白くない「ものがたり」に過ぎないかもしれませんが、そういうものを観察したり、記録したり、思い出したりすることが、僕らの人生を尊くすると思います。

 

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