面白ハンターが去って、今思っていること

どうやって、ここまで来たの

10月から、『面白ハンター』を運営している山本哲氏を呼んで、僕の住む町、朝日町で暮らしてもらってた。

まちづくりに活用すべく譲っていただいたお向かいの空き家の整備をしていたので、そこで一月ほど暮し、住み心地を体験してもらいたいと言うざっくりな依頼を快く引き受けてくれた。

そして一月が経ち、面白ハンターは去っていきました。今僕は思った以上に寂しい気持ちです。

僕の住む朝日町や、士別市街地で、山本君は精力的に記事を書いてくれました。

PRのお願いではなかったので、僕は「とりあえず好きに生きててよ」としか伝えませんでしたが、彼は勝手に興味深いものを探して、コツコツと記事を作っていました。

もしかしたら僕は呼んでおいて放置しすぎたかもしれないと思っていたけど

さよなら士別!1カ月の滞在の様子をいっきにまとめます

を読むと、それなりに色々な思い出があって、良かった!と思いました。

山本君にしてみれば、滞在に費用がかからず、特に条件もなく、一軒家で一人住むだけの依頼を不思議に思ったまま終わったかもしれないけど、僕にとって大きな意味があったのだということをここに書いておこうと思います。

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最初に、僕はこんな感じの「まちづくり」がしたいんだって話

僕はまちづくりを考えているけれど、僕の周辺がにぎわって欲しいとか、活性して欲しいとはあまり思っていません。

イベントやお祭りは苦手ですし、人混みや行列を見ても気になりません。おっとあっちの方は行かない方が良さそうだって考えます。

内向的なタイプで、人見知りはするし、誰とでもすぐに仲良くできるわけでもありません。

誤解しないでほしいのは、だからと言って人が嫌いという訳ではないということです。

自分のことを内向的で人見知りだと言う人はたいていそうだと思う。もちろん二元論では語れませんが、内向的な人はむしろ社交的な人よりもよっぽど人が好きなんじゃないかとすら思います。

そんな僕が考えるまちづくりって何だと言えば、僕みたいな人間が心地よい、安心できる空間を作ることです。

まちづくりという文脈で言えば交流や盛り上がりを作りたくなるかもしれませんが、当の僕がそういったものの中に入り込む自信がない。

どちらかと言えば、映画館や芝居小屋や図書館のような空気の町をデザインしたい。

人が行き交い、一緒に何か見たり感じたりはするけど、あくまで一人のテリトリーが守れるような。その場で育まれる人間ドラマよりはもっとドライな、創作物を各自楽しめるような。

町のどこかで誰かが何か面白いことを考えてるという空気が充満していて、今日もどこかで誰かが静かに感動している予感がするような。

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理想が実現したら僕は本当に満足するのかが知りたかった

さてそんな町の姿を夢想しながら、これまでブログを書いてきました。

ブログを書き始めた動機は複数あるけど、後から、「何で今こんなことやってるの?」「どうしてこういう結果になったの?」という疑問が湧いたときに、「その理由や経緯」を確認できないのが嫌だから(気付いたらこうなってたってのが嫌で)、「思考のログ」として書き始めました。

ところが、考えているだけでは机上の空論です。電脳世界のユートピアです。

実際に僕が理想とするような環境は作れるものだろうか。

僕が理想とする環境は本当に僕が望むものだろうか。

この辺りの疑問を解消するには、あるていど「やってみなきゃ分からない」こともあります。

「とにかくやってみる」とか「やってれば何とかなる」とかいうのは一面の真理かもしれませんが、僕にとって「やってみる」は最後の手段です。決定的なことが起るし、否応なく何かが始まってしまうから最後なのです。

そして今の段階で煮詰まり、「やってみた」のが「山本君を招くこと」でした。

面白ハンター』を見ても分かるように、彼は「真面目な創作者」です。

何も言わなくてもコツコツ町を歩いて記事を作っていましたし、思ったよりうまくいかなかった記事もあったようで、それに対してはしっかり凹んでいました(あ、この人凹んだりするんだって思いました)。

少なくとも僕にとっては、彼との距離感は理想的なものでした。

お向かいに明かりがある。声をかければ返事がある。一人では普段行かないところにも付き合ってもらえる。いつも一緒にいる必要はない。

それが彼にとってどんな経験だったかは分からないけど、記事のような形になっているのを見るととりあえず「良かった」と感じる。

面白ハンターという創作者に出会って

山本君を町に呼ぶことで、僕の理想を体験することができました。

ああやっぱり僕はただ盛り上がりや賑わいを作りたいのではなくて、誰かの世界観の一部を作りたくて、誰かの世界観を垣間見るようなことがしたいんだと思いました。

価値を消費するだけでなく、それぞれの価値観に見合ったものを自分の国に持ち帰ってくれたら良い。そんでひっそり感動したりしなかったりしてくれたら良い。

消費者の役に立つより創作者の役に立ちたい

場所が盛り上がるとか賑わうというのは錯覚だと僕は思っています。

盛り上がりや賑わいという場所のルールに則って、その場に訪れた人が演じているだけで、まちづくりというのは、そういう舞台設定をするようなものだと思う。

このとき、僕は祭りやパーティ会場を作りたいのではなく、映画館や図書館を作りたいということ。映画を見る人と作る人、本を読む人と書く人。これは比喩ですが、そういうモノを通して、人と関わりたい。

どうせ錯覚なら、上質なツクリモノが見たい。作為に溢れた芸術が見たい。そっちの方が清々しく感じる。

この上ない10月だった

多分だけど、僕も山本君も、思ったことや感じたことは口にするより書く方がうまく行くと信じてる人なんだと思う。

あんまり会話はしなかったけど、僕はこの一か月『面白ハンター』が更新されるのが楽しみだった。

同じところに行ったのに山本君いつこんなキレイな写真撮ってたんだとか、ここ今こんな感じになってるのかとか、僕が町にいながら全く関わりを持たない人とも交流してる感じとかを見ると、何とも言えない「面白さ」を感じる。知らない町を見てるような。

道路を一本挟んで向かいにいるのに面と向かっては大して何も言わんと自室でパソコン開いてブログを読んでおーとか思ってる。

世間的には何も盛り上がったりしないけど、僕の精神は賑わってる感じがある。

この満足感はやっぱり良いな、と思ったから、僕はこのまま考え続けて、たまに何か「やってみる」と思う。そういうことを慎重に繰り返していれば、理想が現実になる日が来るという予感が濃くなった。

きっとわかってもらえるでしょう。

映画を見終わった後の置き去り感。

小説を読み終わった後の寂しさ。

RPGゲームをクリアしてしまったあとのポッカリ感。

面白ハンターが去った今、それに似た感情が芽生えています。

そういう感情と余熱が次の作品との出会いを求めるように、僕はもっと人と会いたいと思っているし、そういう種類の満足を求めている。

そういう感情がはっきりしたし、理想の形を体験したからこそ僕のイメージに質感みたいなものが生まれた。だからやっぱり山本君を呼んで良かったと思っています。

この上ない10月だった。

 

面白ハンターを町に呼んでみた

面白ハンターが去って、今思っていること(完)

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