地域は価値ではなく価値観を発信しなければ

まちづくりを考える

僕の住む朝日町は人口1200人程度だから本当に小さいんだけど、僕らが自分の地域のためにやるあれこれは、どんだけひいき目に見ても大したことないです。

ほとんどの人には注目もされないし、関心も持たれない。

だから僕らはどんなに頑張っても小さなコミュニティで頑張るしかないし、望むと望まないとにかかわらず、小さなコミュニティでいるしかない。

だけど、「僕らは小さい」っていう実態とは裏腹に、誰もが「文明社会」という大きなコミュニティの中で頑張っているのではないかと思います。

それは「利益で物事の価値を計るという価値観」で統一されたコミュニティです。

もしくはSNSなどで爆発的に注目を集めるような、「大衆に認められることを価値」とするような承認欲求コミュニティ。

そんな「文明社会」というものを通して自分たちのやってることを見たとき、お金にならないとか、話題にならないという理由で、僕らのやってることや隣の誰かがやってることが虚無的に見えてしまうことが多いのではないでしょうか。

旧佐藤医院のことを書くのも

僕は自分自身のやっていることが虚無的に見えてしまうことがあります。

例えばこうして旧佐藤医院のことや自分の地域のことをブログに書くのも、多くの人に知ってもらいたい、自分のやっていることを正当なものとして認めてもらいたいという感情があるわけです。

心からこの社会に価値を提供したいという利他的な感情よりは、自分たちが価値があると思うものをみんなに認めてもらいたいという気持ちが強くなることが多いです正直に言うと。

そういう気持ちが全面に出ると、支持されなかったときに落ち込むことになる。相手にされないと「無視された」みたいな被害者意識みたいなのが芽生えることもある。

もちろん、こういう感情は揺り戻しが働いて、「まだまだ誰かにとって有益な情報を発信できていないんだ」と考えることもできる。

ただ、こういう思考とはまったく別のベクトルでものを考えることもあります。

つまり、「価値を生み出す」とか「認められる」って後からで良くない?自分たちが良ければ良くない?いやむしろそこがスタートだよね、みたいな感情です。

地域は価値ではなく価値観を発信しなければ

「自己満足に対して卑屈にならないで済むコミュニティ」って強いよねというようなことを考えることがあります。

つまり、みんなが自分だけの価値観を持って、ときに仲間を集めたり困難に立ち向かったりして、結果全く注目されなくても、誰にも認められなくても、幸せで充実した人生を送っているという満足感に価値を感じられるコミュニティです。

それぞれの価値観を許容し、共存できるコミュニティであれば、構成員の満足度は増すはず。きっとそういうコミュニティは小さくても強いし、多くのドラマが起こり面白いのだと思います。

じゃあ、この地域はどんな価値観を満たせる場所なのか、どんな価値観を持った人が満足できる場所なのか、という風に突き詰めれば、それこそが地域の個性になり、オリジナリティになり、仮に地図上から名前は消えても、強烈なアイデンティティの維持ができることになる。

あってもなくても同じ地域なんかじゃなくなると思う。

価値観で人と繋がり、安定したコミュニティをためにも、各地域は価値ではなく、価値観の方を発信するべきなんじゃないかなと僕は思います。

価値を生み出すのはその後にでもついでにやる感じで遅くないのではないんじゃないか。

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