誰もがみんなとりあえず税金という形で老人を支えていて、その負担は次第に大きくなり、今後もっと若い世代の生活を圧迫することになるのでしょうどうせ。
どう考えても少子化を改善する方法はありません。一人何人産めば良いというのか。
今から人口バランスを理想的なものとするのは無理ゲーっぽいです。
恨むべきは主に国の失策であり、長生きする老人ではないけれど、少子高齢化問題を解決する方法はもはや、老人の死に期待する他ないところまで来ているのではないかと思うのです。
しかし、社会として老人世代の死を期待するというのは倫理的に許されることではありません。軽口程度に老人くたばれば解決説を唱えることはあるかもしれませんが、本気で殺意を持っていたら狂人です。
いずれにせよ、ここで「くたばる老人」というのは自分の近親縁者ではなく、どこか遠くの老人のことを指すに違いありません。
「遠くの、どこかにいる知らない老人」の多さに困ってはいるものの、現実的に実感として日頃会うあの老人もこの老人も死ねば良いという過激な思想を持っている人は極少ない、はず。
今日は漠然と老人との距離について考えたことを書くことにします。
距離を取るためのお金
僕らが老人のために払うことになるお金は、老人との距離をとるためのお金なんだろうな、と何となく考えました。
お金は払うから、老人は目に見えないところで元気でやっとくれ代です。老人に限らず、僕らが福祉に払っていると思っている税金はほとんどこの類のものなんでしょう。目に見えないところで元気にやっとくれ代。
というかそもそも、お金というのが人との距離を保つためのツールなんだろう、ということを最近実感します。
この負担がどんどん増えていく、ということは。
僕らの分断は続いていて、今後分断は加速していくが故に、そのために支払うお金がどんどん増えていく。
分断が加速するという点についてはみんな少なからず実感していると思います。僕ら互いに「知らない」「知らなくてよい」「見なくても構わない」という領域を意識的に選択するようになった。「多様性」は皮肉なことに分断を加速させた。
間接的にしか関わらない人間、自分とは違う世界の出来事。僕らはそのことをひと昔前の人よりずっとよく知っているし尊重もするけれど、その方法は「そっとしておく」「必要ならお金を出す」というスマートに見える、心と体を介入せずに済むやり方に依存しているように感じます。
分断によって支払うお金が増えているのだとすれば、分断を解消すれば多少は金銭的負担が減るだろうか。
老人に近づくだけで節約ができる
老人にかかるお金がかかって仕方ないのなら、みんな自分のじいちゃんばあちゃんは自分で面倒を見れば、確かに老人福祉に関わるお金の節約につながるかもしれません。
老人が身動きをとるために必要な公共機関に関わるお金も節約できるかもしれない。
そもそも、各家庭で食事や運動を管理できれば、健康寿命は必ず延びるのだから、それだけで医療費は全国レベルで積みあがれば随分変化するだろう。
うちのばあちゃんだけかもしれないけれど、人体に関する知識、栄養に関する知識というものが全くと言って良いほどありません。たんぱく質とは、炭水化物とは、ビタミンとはミネラルとは。それらがどんな働きをするか分からない。血圧とは、血糖値とは。
体調が悪いときも、どこがどうなってるからこの症状が出ているかということを認知することができません。うちのばあちゃんはそもそも健康だから人一倍そういうのに疎いのかもしれないけれど、同じ世代の方なら似たり寄ったりなんじゃなかろうか。
だから健康を意識して食事を取るということも原理的にできない。知らないから。毎日三食食べれば体に良い、程度。野菜は体に良い、と知っているけれどどう良いのか知らない。わりに、僕ら夫婦より野菜の摂取量も少ない。漬物やゆで過ぎのおひたしは食べるが……。
だから老人に近づくだけで節約できる社会のお金というのは多大なものになると思う。
まあその分個人の金銭的、精神的負担が増えるのだけど。それはそれで無理って話なんだけど。
距離を取ってきたのには意味があるので近づけ、まとまれ論には無理がある
僕ら国民が僕ら自身の工夫によって、老人の福祉に関わるお金を節約しようと努めたところで、国がそれに応えて柔軟に、浮いた分を子供に回したり、その他の福祉に使ったりするかどうかはまた別の話、というか期待はできません。
国の負担を減らすために国民が家庭レベルで頑張っても、国が家庭の負担を減らそうとはしてくれないだろう。国民の未来に投資はしてくれないだろう。
だから明らかに別の方策が必要だし、机上の空論なんだけど、近寄ったりまとまったりすれば使うお金は減らせるという点は頭に入れておいても良いかもなと思います。
単純に何か「モノ」を使うにしても、一人一台ではなく、家族で一台の方が安く済みますもんね。それぞれが自家用車で移動するより、一台のバスでみんなで移動した方がガソリンの節約になる。それだけ考えてもまとまる、近づくというのは節約の王道なんだけど、随分前からそういう生活は目指さなくなっている。経済成長の歴史が、こういうスタイルとの決別を選んできたのですものね。
近いとウザいし近いと不愉快が多い。そういうものをクレンジングし続けて今があるのだろうから、今さら近づけまとまれというのは無理がある。
よって行き着く先は、やはり、老人がどこか見えないところで静かに息をしていてくれたらという願望?
いや、もう少し何かあるはずだ。みんなハッピーになる方法が。
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