父を知らない男が『カラマーゾフの兄弟』を読んで考える父親と愛のコンプレックス

「愛」について考えます。

とは言えそんな大きなことを考えるのは骨が折れるので、「父親としての愛情」について考えます。

きっかけは自分の子どもが産まれたからです。

しかし僕には父親の記憶がまったくありません。父親に愛情を向けられた経験がなく、「父としての愛情」にピンとこない。愛について考えるには良い土台です。

父として、どういう風に我が子を愛すべきなのか。

答えは簡単で、好きなように愛せば良く、僕が周りの人に愛されたように愛せば良く、なにも父として愛す必要はありません。

「父特有の愛」が必要とも思いません。

しかし一方で、「父親が示す愛情」について興味があるのも事実です。

父という存在になってみて、僕にはロールモデルがいないことに気付きました。また、「父」という存在に対して漠然とした恐怖心を持っていることも認めざるをえません。

そこで本です。物語の世界では、しばしば「父」がテーマに上がることがあります。文学上の父は「超えるべき対象」として存在することが多いのではないでしょうか。

もしそうなのだとしたら、僕には越えるべき相手、倒すべき相手というものが存在しなかった。実の父どころか、父的なもののほとんどを避けていました。超えない、避ける、を徹底していました。

この記事では、個人的な話題に触れつつ、『カラマーゾフの兄弟』及び『熊と踊れ』という小説をほんの少し引き合いに出して「父と愛」について考えてみたいと思います。

ついでにカラマーゾフの兄弟→ロシア文学→ロシア幼女→愛という連想で『うちのメイドがウザすぎる!』というアニメ作品にも言及してしめる予定です。

正直何を書くべきなのか分かっていないし、まとまりのないまま、思考が深まらないまま遠慮なく書くので相当暇な方でなければ読み切れないでしょう。

そんな予感がするけれど、とにかく書いてみようと思います。

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父親を知らないのは不幸か?

僕は父親を知らずに育ちました。

子どもの頃、父親はいないと言うと、多くの人が一瞬虚を突かれたような顔をしました。

余計なことを聞いてしまったという後悔と、僕の背後に父親がいないことに関する不都合について考えるというような顔です。

母子家庭なんてありふれているけれど、世間的に見て「欠損」であることに違いはないのかもしれません。

雑に見ると単純に「困った顔」をする方が多く、中には余計なことを聞いたねと謝ってくれる方もいるので、僕は「生まれたときから父親はいないので全然大丈夫なんですよ」と、何がどう大丈夫なのか分からないことを言います。

はじめから父がいないという感覚は、例えば衛星を考えると分かりやすいかもしれません。

「フォボス」と「ダイモス」という衛生を二つ持つ火星に住む人は、「月」しか持たない僕らに同情するかもしれませんが、こちらとしてはまったく同情される必要のないことです。

僕ら地球に住んでいて、衛生が月一つしかないことに不足を感じるでしょうか。僕には母だけで十分だった。祖父母が補ってくれたということはあるけれど、祖父母は祖父母であって、親代わりではない。

父親がいないことで感じる不便は本当にありませんでした。母は僕も姉も私立大学に入れてくれたし、祖父母が近くにいたので寂しさも感じたことがありません。

大人になって、両親が揃っている家庭とうちの家計にはけっこうな水準の違いがあることを知りましたが、飢えたことも凍えたこともないし、部活には打ち込めたし、大学も卒業できたし、なんら過不足なく生きることができました。

父親がいなくて困ったことは、父親世代と何を話して良いか分からないこと

お父さんがいなくて困ったことはない?と母に聞かれたことがあります。

振り返ってみると、父親がいないことで生じる問題はゼロではありませんでした。

それは、「父親世代と何を話して良いか分からない」ということでした。

この点をもっと掘り進めると、僕は父親に近い男性が、どんな種類の愛情を持っているのかを知らない、という事実に行き当たります。

もっと端的に言えば、僕は父親世代の人が何を考えているのか分からない。

友達の父親という存在が怖かったです。

友達の父親は優しいので怖がるのはおかしいことは分かっているのですが、例えばカメレオンみたいな動物が未知すぎてどう接して良いか分からない、みたいな怖さです。

大げさと思うかもしれません。父がいない人なんてありふれていますし、父に限らず、他の家族と比べて「いない存在」なんて誰もが持っていると言って良いです。

実際、怖いというのもおかしいなと自分で思います。怖いという言葉以外に相応しいものがないから、しぶしぶ怖いという表現を使っているという感じです。

もっと正確な表現を探そうと思えば、「遭遇すると戸惑う」とかその程度かもしれません。

とにかく僕は、「父」という存在がどんな種類の愛情を持っているのかが分からなかった。どこまで踏み込んで良いか分からない、どんな話をすれば良いか分からない。

もっと有体に言えば、どうすれば気に入ってくれるのか、どうすれば一目置いてくれるのか、どうすれば目をかけてくれるのかが分からない。

少々卑屈な気分になって、否応なしに萎縮してしまう。ときには攻撃的にすらなってしまう。これは良い大人になった今もあまり変わっていません。人の父親というものが苦手で、父親世代が未知で恐ろしいです。

『カラマーゾフの兄弟』父と子の物語

そろそろ本の話に行きます。誰も僕の個人的な事情には興味がないでしょうし、僕自身、父親がいないことなんてどうでも良いのです(本心ではあるけど、このような攻撃的な物言いをしてしまうことがある)。

ただ、自らが父という存在になったので、父とはどんな存在なのかを文章にして考えてみたい。

そう思ったとき『カラマーゾフの兄弟』を思い出しました。

ドストエフスキーによるロシア文学の古典的な傑作です。

と言っても学生の頃に読んだっきりでたいして覚えていない。

学生の頃は『カラマーゾフの兄弟』を読んでレポートを書く授業があったのですが、そこで僕は単位欲しさに適当に読み流し、「三兄弟はそれぞれ父フョードルの分身だ」みたいなことを書きました。

適当こいたという感じですが、悪くない考えかもしれません。

フョードル・バーヴロウィチ・カラマーゾフが父親。

長男はドミートリイ。

次男はイワン。

三男はアレクセイ。

ドミートリイの母親とイワン、アレクセイの母親は別。

カラマーゾフの兄弟を読んだことがない、という方も、このくらいのことを知っておけばこの記事では問題ありません。

このあと、もう少しだけカラマーゾフの兄弟に出てくる人物について補足を書きます。

父フョードルは最低の男

フョードルがまあまあどうしようもない男で

およそ俗物で女にだらしがないばかりか、同時に常識はずれの、ただ常識はずれと言っても自分の財産上の問題を処理する上では大いにやり手で、それだけしか能がないといった感じのするタイプの人間だった 15p

およそ男のダメなところを全部集めて開き直らせたみたいな性格をしています。

欲望を満たすことにまったく抵抗がなく、自分の欲のために息子すら出し抜こうとする男です。

カラマーゾフの兄弟 フョードルの息子たち

フョードルの息子たちは、それぞれ個性的です。

フョードルの最初の妻の子であるドミートリイは、父フョードルの評価するところによると

この青年が軽率で、気性が荒く、激情家で、せっかちで、遊び人であり、いっとき何かを手に入れさえすれば、もちろんほんのしばらくの間だけとはいえ、すぐにおとなしくなってしまう 新潮文庫『カラマーゾフの兄弟 上巻』原卓也訳 26p

となります。フョードルはドミートリイの子育てなんかしませんでした。使用人と母の従兄弟にあたる叔父に育てられました。

母の家は資産家で、ドミートリイも幾らか財産を持っているはずでしたが、成人し財産について話し合うまでまともに父と会ったことがなかった青年です。

荒々しく繊細なロシアの男!という感じの人物像です。

続いて次男のイワン。語り手によるとイワンは

彼は成長するにつれて、なにかこう気難しい、自分の殻に閉じこもったような少年になった。決して内気なわけではないのだが、やはり自分たちが他人の家庭で、他人の情けにすがって生きていることや、自分らの父親が、その名を口にするのさえ恥ずかしいような人物であることなどを、十歳ごろからさとったようなところがあった。34p

聡明で一種のカリスマ性がある一方、心底で何を考えているのか分からないミステリアスな青年でもあります。

無心論者であり、敬虔なキリスト教信者である弟にあの有名な『大審問官』という叙事詩を聞かせ、神の不在を問います。

三男アレクセイのキャラクターがもっとも分かりやすく説明するにはどこを引用すれば良いでしょうか。

彼は人々を愛していた。人間をすっかり信じきって、終生を暮らしているように見える彼だったが、それにもかかわらず、一度としてだれ一人、彼をお人よしと見なす者も、単純な人間と見なす者もいなかった。自分は人々の裁判官にはなりたくない、人の批判なぞするのはいやだし、どんなことがあっても批判したりしない、と告げ、感じとらせるような何かが、彼にはあった(そして、これはその後、終生を通じてだった)。始終つらい悲しみを味わっていながら、いささかも批判せず、すべてを赦しているようにさえ思われた。それだけではなく、この意味で彼は、だれ一人彼をおどろかすことも、怯えさせることもできぬほどの域にまで達し、しかもしれがごく早い青春期のことなのである。42p

純真な聖人と一言で言えば良いでしょうか。しかし『カラマーゾフの兄弟』の主人公というだけあって、一言で言い表わして良い空気を持っていない人物です。

まさに三者三様。腹違いという事情はあるにせよ、三人とも見事に異なったキャラクター性を有しています。

もう一人、フョードルの私生児と思しきスメルジャコフという重要人物がおりますが割愛します。

ここで書きたいのはカラマーゾフの兄弟の考察でも解説でもなく父の愛について。

息子を愛するフョードル

以下はフョードルとアレクセイの話です。

最初のうちは疑い深そうな気むずかしい顔で息子を迎えたが(「やけに黙りこんでやがるけれど、肚の中でさんざ非難してやがるんだろう」と言っていた)、やがて、ものの二週間とたたぬうちに、やたらと息子を抱きしめて接吻するような結果に終わった。もっとも、一杯機嫌の感情で、酔いの涙を流しながらではあったけれど、しかし心底から深い愛情を息子にいだいたらしく、彼のような人間がこれほど人を愛したことは、もちろん、これまでに一度もないことだった……43p

次男のイワンとの関係も面白いです。

青年は傍目にもわかるほどの感化を老人に及ぼしていた。父親は時にはいやがらせとさえ思えるくらい極端にわがままを言うこともあったものの、時にはほとんど服従するようにさえなった。品行さえ、時にはよくなったほどである……38p

「そのころのイワンは、父を相手に大喧嘩をもくろみ正式の訴訟さえ考えていた長兄ドミートリイと父の仲裁者か調停者といった感じだった」と書かれているとおり、長男のドミートリイとフョードルの関係は常に争いのトーンがあります。

このように、フョードルは息子たちに対して明らかに「他人」とは違う感情を持っているようです。

少なからず「息子」だから、愛しかったり、「息子」だから過剰に敵対してしまったりするのではないでしょうか。

ここでそう思った根拠を説明することは能力的にも紙幅的にもできないのですが、大学生当時、この息子たちを三人合わせたらフョードルになるんじゃないかな、と思ったわけです。

フョードルが持っている性質・性向を分離して、濃く引き延ばしたのが息子たちなんじゃないか。

もっと言えばフョードルの罪をあがなうのが息子たちで、もっとくだけて言えばフョードルの尻拭いをさせられているのがこの息子たち(スメルジャコフも含めて)なんじゃないか。

父は自ら持っている要素を息子の中に見つける

あくまで仮説で妄想です。小説の考察とは言えませんが、あの自己愛の塊のフョードルが息子を愛するとしたら、それしかないんじゃないかとふと思ったのでした。

父親は自分の美しい要素を子どもに見つけたときに愛するようになるんじゃないか。

その記憶がまだ残っていて、「父親として子どもをどうやって愛するか」という問題が芽生えたときに、『カラマーゾフの兄弟』を思い出したといういきさつでこれを書いているわけです。

でも、特に男性ってこういう面が強いのではないかと思います。

共通点があるとその人に親しみを感じてしまうのは皆一緒だと思うけど、特に男性は「共通の趣味」とか「共通の経験」によって絆を深めようとする傾向が強いような気がする。

同じものを使っている、同じところに所属している、同じ思想を持っているということを大事にする。

曖昧な根拠です。でも例えば自分の子ども対して愛情を向けるとき、無条件の愛なんてものがあるでしょうか?

自分の子だから当然のように可愛いとは言っても自分がお腹をいためる訳でもなし、十月十日お腹の中で成長するのを実感するわけでもない。

絆が母子関係ほど太くなく、自分の子、という感覚が希薄だからこそ、自分との共通点や相違点を探してしまうのだと思います。

そして、子どもには少しでも自分の遺伝子を残したいとも願うものではないでしょうか。

自分の技術や思考を植え付けたいと思うのではないか。

そしてそれが成功したときに、独特の愛情、つまり「父としての愛情」が芽生えるのではないか。

『熊と踊れ』と父に対するアンビバレント

三人兄弟+1という共通点、そして、「父の技術や思考を植え付ける」という点で思い出すのが『熊と踊れ』というスウェーデンの長編小説です。

凶暴な父によって崩壊した家庭で育ったレオ、フェリックス、ヴィンセントの三人兄弟。独立した彼らは、軍の倉庫からひそかに大量の銃器を入手する。その目的とは史上例のない銀行強盗計画を決行することだった――後略 早川書房『熊と踊れ(上)』背表紙作品紹介より

厳密かつ大胆な犯行で警察を翻弄し、次々と銀行を襲撃していくレオたち。その暴力の扱い方は少年時代に父から学んだものだった。――後略 早川書房『熊と踊れ(下)』背表紙作品紹介より

自分の論を展開したいがためにパーツのように扱って申し訳ないのですが、『熊と踊れ』も父と子の話です。

母を傷つけ家庭を崩壊に追い込んだ憎い父親である一方、特に長男のレオは父の教えを自分のものにして戦うことになります。

タイトル『熊と踊れ』はまさに父がレオに教え込んだ喧嘩の極意。

銀行強盗を働くにあたって、レオは弟にこの極意を自分流に伝えます。

熊を相手に踊るんだ、ヴィンセント。ほんとうに勝ちたいのなら。近づきすぎちゃいけない。そんなことをしたら生き延びられない。熊はおまえよりずっと大きいんだ。八つ裂きにされるのがオチだ。けど、熊のまわりを踊ることはできる。そうやって、じっくり待つことはできる。繰り出せるパンチは一発だ。それが命中したら、そのままステップを踏みつづけて、次のパンチの準備をする……銀行強盗もこれと同じだ。小さなグループ、たった数人の強盗犯でも、警察に勝てる。毎回、小さなパンチでも、何度も殴りつづければ熊はイライラする。混乱する回復する時間を熊に与えちゃいけない。イライラしてキレるまで、何度も何度も殴りつづける。熊のダンスだよ、ヴィンセント。殴って、混乱させて、退散する。次も同じことを繰り返す。銀行を次々に襲う。p284

これは父親の受け売り。

父の教えはもう一つあります。

父はアイスキャンディーの棒を家族に例え、束ねれば力を加えても折れないところを息子に見せる。

「おれたちはひとつの氏族(クラン)だ。おまえたちは、おれの氏族の一員だ」

「氏族がこうして団結すれば、絶対に折れることはないんだ。」

「ほんものの氏族は、絶対に仲間を裏切らない」

「ほんものの氏族は、いつでも仲間を守る」

この二つの教えに従う形で、レオは弟たちを統率し、強い結束を以て大それた犯罪を繰り返していく。

父に教わったやりかたで、父にできなかったことを(家族と結束し戦う)成し遂げることに執着するレオにとって、父親というのは非常に大きな存在なのだと思いました。

やっぱり子にとって(特に息子にとって)父親とは良くも悪くも壁であり、倒すべきものだったり乗り越えるべきものだったりするのかもしれない。

さて僕は何を言いたいのだろう。

父の愛の話をするつもりでしたが、子にとって父とは、という話になってきた。

そう、僕に父親はいないけれど、架空の父は存在する。漠然とした父性というものを意識している。

そしてその漠然とした父性に対して、僕は尊敬の念を抱かず、どちらかというと嫌悪感を抱いている。

僕が辛いのはここかもしれない。

言うなれば僕は父性というものを乗り越え、父性的なものを意識的に無視しながら、自分の子と接しようとしている。

漠然とした父に反抗するように、父親的なものを押し込めるという形で愛し方を考えようと思っている。

そこに一抹の不安を感じる。父親になっていくのが怖い、とも言える。

『うちのメイドがウザすぎる!』の希望

そんな僕に希望の光を与えてくれたアニメ作品が、『うちのメイドがウザすぎる!』です。

鴨居つばめはロシア美幼女であるミーシャの可憐さに心打たれ、合法的にお近づきになるため家政婦としてミーシャ宅に出入りするようになる。

愛が重すぎるメイドと、他人から受ける無償の愛に恐怖を抱くロシア美幼女の日常系コメディ。

コメディではありますが、なかなか重いテーマを孕んだ話でもあります。

ミーシャの母親は病死しており、以来ミーシャは荒れ気味。部屋に引きこもりがちで、多忙の父はミーシャのお世話役として家政婦を雇うけれどいずれもミーシャの嫌がらせにより次々辞退しているという現状。

父親は再婚相手ゆえ義理の存在ということもあり戸惑っている。ミーシャはお父さんやパパとは呼ばす、名前(ヤスヒロ)で呼び捨てにし続けている。

父はお父さんとかパパと呼んでほしいと思っているし、ミーシャが本当の子らしくわがままを言ったりお願いごとをすると過剰に喜ぶ。

つまりミーシャは実の両親以外の他人から無償の愛を、しかも多大な愛を受けて生きている。けれどその愛を受け取ることができずにいる。

好きなように愛せ

そんな現状を変える存在が、重すぎる愛、押しつけ過ぎる愛を持っている鴨居つばめという存在です。

自衛官時代から鍛えに鍛え上げている屈強な肉体と異常なメンタルの強さで、その愛をしりぞけようとするミーシャにおかまいなくからんでいく。

鴨居はただミーシャが美しいという一点にのみ惹かれて全力で愛をぶつけていく。

ミーシャの心を愛でもってムリくりこじ開けて、母の喪失を一緒に乗り越える物語。

もちろん、現実では、だからと言って誰かが嫌がるのに熱烈に求愛して良いわけじゃないし、追い掛け回して良いわけじゃない。ウザいで済まないことの方が多い。

「あいつは私を怒らせることはあっても、傷つけるようなことだけは絶対しない。ウザくて変態だけど」

アニメ最終話においてミーシャにこう言わしめる巧みなキャラクター設定により、役割的な愛ではなく、血縁的な執着でもなく、人間として人を愛せるというのは素晴らしいことだ、ということを教えてくれたアニメでした。

好きなように愛せ。

長いわりに結論しょぼいけどまあ良いか。

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