疲れているときについ見てしまう情報やコンテンツは積極的に生活から排除していこう、という志を立てました。
強い意思が必要なのでこうして記事にしておこうと思います。
情報やコンテンツの摂取に限らず、疲れているときにやってしまうことにろくなことがありません。
なぜなら、それは疲れていてもできる楽なことだからです。
そこまでストイックな性格ではないので僕にとってこの記事のタイトルは少々挑戦的なのですが、それにしても疲れているときにやってしまうことを排除する、特に情報やコンテンツは今すぐにでもってことを意識していかないと老いるばかりだなと感じました。
自覚しない疲労→ジャンキーな情報の摂取で疲労のスパイラル
疲れた、という自覚はなくともついついスマホを弄っていつの間にか見ている動画やその他コンテンツ。
娯楽として能動的に楽しんでいる作品やコンテンツは別にして、見るともなく見てるものってけっこうあります。
普段見ないけど何となくタイトルに惹かれてタップしちゃうyoutube動画、ファンという訳でもないのに見てしまうゴシップ。
信じられないと言われるかもしれませんが、「こうやってボーっとジャンキーな情報を見ているときって僕疲れてるんだよなー」って気付いたのはごく最近のことです。
もっとよく観察すると、そういう時間はとくに何も得ていないのに謎の充足感があり、リラックスしていると思いきや疲労はまったく取れていない。
結果、スマホを見ている時間が無駄に長くなり、その間に得るのは新たな疲労。
刺激を摂取することで疲労が溜まり、また楽なコンテンツへと誘導されるを繰り返しているうちに時間が経って、歳をとってしまうという恐怖心が湧きました。
このままでは触れる情報がどんどん劣化していく
疲労→ジャンキーな情報→新たな疲労というスパイラルを経ている間にも、僕自身がどんどん年老いていく。
年老いていくに従って良質で高質な情報が得られるようになってしかるべきなのに、実際はどんどん楽なコンテンツ楽なコンテンツという風に手が伸びてしまいます。
念のため、「楽な」というのをもう少し具体的に言っておくと、「自分の頭を使わなくても良い、一方的に教えてもらえる情報」もしくは「自分にとって耳障りの良いことを言ってくれる情報」などがあると思います。
それは考えなくても良い、悩まなくても良い、葛藤しなくても良い、の良いことづくめの毎日を作ってはくれますが、僕の人生を作ってはくれない。
だからタイトルのとおり、「疲れているときについ見てしまう情報やコンテンツは積極的に生活から排除していこう」という志を立てました。
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