たぶん僕らの遊びには大きく2種類あります。
一つは、誰かが、もしくはみんなで決めたルールに則って行うもの。
もう一つは、自分が決めたルールに則って行うもの。
鬼ごっことかかくれんぼとか、地方や世代によってルールは様変わりするものの、参加者の間でルールが統一されていることは間違いないです。
一方、いわゆる一人遊びでは、自分がルールを決めてそれに則って遊びます。日なたを歩いちゃダメとか、歩道のブロックから落ちたらダメ、みたいなヤツです。
上を目指すやつと内を目指すやつ
「みんなで決めたルールに則って行う遊び」と「自分が決めたルールに則って行う遊び」の2極があるのだとしたら。
その性質はまた別の側面を帯びます。
前者において勝つというのは「上を目指す」ということで、後者において勝つというのは「内を目指す」ということです。
言い方を変えると、前者は誰が見ても勝者であり、後者は自分だけが分かる勝利です。
遊びとは言ったけれど、人生にかかわるものすべて、このどちらかではないでしょうか。
僕らが日常で行う本気度の高いものは、すべて遊びの側面を持ちながら、それゆえに、勝負の側面が必ずある。
勝負である以上、克服するべきゴールや目標が必ずある。
そのゴールが「上」にある場面と、「内」にある場面があるのではないか。
「他者と競争する場面」と、「自分との勝負が要求される場面」は自分で決めて良いはずだけど
この両者の存在はみんな分かってることだと思います。
誰でも人生には「他者と競争する場面」と、「自分との勝負が要求される場面」があることを肌で感じているはず。
ただ、その場面の選定といいますか、この場面は他者と競争する場面だぞ、とか、ここは自分との勝負だぞって決める主導権が自分にあるということは、忘れてしまったり、貫けなかったりする場面ってけっこうある気がする。
例えば明らかに他者との勝負の世界に身をおくアスリートが必ずしも他人と争っているわけではないですし、自分との闘いっぽいことも(山登りとかダイエットとか?)誰かより上を目指していないとは限らない。
どちらが正しいではなく、自分が熱くなれる方をモチベーションにやれば良いのですが、現実にはなかなか、自分で決めるのは難しい。
野球は敵に勝つためにやるものだ、と見なされる
例えば僕は高校時代野球部に所属していたけれど、まず地区で○勝して全道だ、それから○勝で甲子園だと発破をかけられたりもしましたが興味がありませんでした。
僕は試合での勝利より本日の練習でノーエラーの方が大事だったし、勝利よりトスバッティングの練習で全球快音の方が大事だった。試合でも三安打ノーエラーが目標だった。
だから練習はちゃんとする、けど「勝ちたいか?」と言われればどうでも良かった。僕は今日の練習試合の相手がどこだったのかも分からない人でした。
誰もが、野球をしているのだから当然勝利を目指してると見なします。
僕の場合、勝ったら嬉しいけど全然目指してはいなかった。僕にとって野球は自分で定めたルールや設定が達成できれば結果的に勝つ見込みがあがるスポーツでしかありませんでした。
他者がみなしたゴールに振り回されないようにする
なんでも他者との競い合いにしてしまった方が熱くなる人もいれば、だいたいのことは自分との闘いにした方が良いパフォーマンスを発揮する人もいるのでしょう。
基本性質としてその違いがあって、さらに取り組むものによってどちらの方が捗る、熱くなれる、集中できるというのが人それぞれ違うのだと思います。
でも、僕にとっての野球が「自分の満足をゴールとしていたけれど勝利を目標と見なされていた」ように、「周りがみなすゴール」ってのもかなり多いと思うのです。
小説を書いてると言ったら商業デビューを目指してるとみなされたり、反対にガチガチ一番になりたくてやってることを趣味やお遊びだとみなされたり。
ゴールの性質や到達点の景色は、他人は正確に描けません。
この事柄は上を目指すやつ、この事柄は内を目指すやつ、という風に自分自身で把握して、他者がみなしたゴールに振り回されないようにするのが大事だと思います。
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