実はこのブログで何度か書いていることではありますが、大事なことなので何度も書きます。
若者が来る町と来ない町の違いは、そこにストーリーがあるかどうか
という話です。
こう言えば、この町には古くからの歴史が、とか、この地域の人たちはこんな想いが、とかいう話になると思うのだけど、違います。
ここで言うストーリーとは、あくまで「まちに来る若者」のものです。
ありていに言って、人は他人のストーリー、ある地域のストーリーになんて興味がない。それがどれだけ伝統的なものであろうと、どれだけ高尚であろうと、絶対的な価値を帯びるわけではない。
なぜなら、僕らが重要に思うのはいつも「自分の」ストーリーであって、自分以外のものは全て自分が作る物語の背景でしかないからです。
よって、「背景」という意味では町にもストーリーは必要だし、その土地のストーリーはその地域やそこに住む人にとって大事なのだということは否定できないけれど、それは誰かの人生というストーリーに寄与するか?という視点無しにはただの押し付けになってしまう恐れがあります。
これは意識してもしても難しいことで、僕はまさに「誰かのストーリーのための何か」が自分にできるだろうか?とずっと考えているところなので(でも答えにたどり着かん)、自戒と確認の意味が強いのですが、今日はそんな話を書きます。
オーストラリアのあの辺鄙な町に若者がたくさんいたのは、仕事があったからじゃない
僕が「まちづくり」を意識しだしたのは、22~23歳の頃にワーキングホリデー制度を使ってオーストラリアで過ごしたのがきっかけです。
ある地域で野菜の収穫バイトをしていたのだけど、その地域は僕の故郷と同じ程度にアクセスが悪く、かつ人口もそれほど多くないところでした(僕の故郷よりは多いけど、たしか5000人くらい)。
しかし若者がひっきりなしに訪れる地域です。スーパーは閉店ギリギリまで若い人たちがお買い物をしている。泊まっていた宿にはおそらく常に50人くらいの、様々な国から訪れた若者が生活していました。
この差はなんだ?
僕は単純に、「ここに仕事があるからだ」と考えました。
しかし深く考えると全然違いました。
そこは、オーストラリアでワーホリを楽しむ、オーストラリア全土をラウンド旅行する、と言った自分のストーリーを持つ若者たちにとって都合の良い土地だったのです。
自分のストーリーを充実させるために踏む必要のあった土地だった
若者たちにとって重要なのは、あくまで自分のストーリーです。
これ、僕も頭に叩き込まなきゃならない。何度考えても「自分」に寄ってしまうから。もちろん僕も僕のストーリーが大事だ。だけど、誰かにストーリーを与えられなければ、大事にしてたってしょうがないもの、成し遂げられないものがある。
重要なのは、あくまで自分のストーリー。
あのオーストラリアの宿にいた人はどんなストーリーを抱えていたでしょう。
オーストラリアにいる。あの大陸を縦横無尽に駆けめぐる。素敵な仲間との出会いと別れを経て色々な価値観に触れる。自力でお金を稼ぎ、多様な経験値を積みながら冒険をする。目標を達成する。目的地に到達する。
若者とかワーホリメーカーとひとくくりに言えばそれまでですが、誰もが自分のストーリーを持って過ごします。
もちろん、ワーキングホリデーという特殊な状況にのみ当てはまることではありません。
誰にとっても自分のストーリーがあり、目的があり、舞台や課題は違えどみんなオリジナルの人生を作って生きています。
そして、誰もが自分の歩んできたストーリーを素晴らしいものにしたいと思っています。
このことを本当に頭に叩き込まなければならない。
ストーリーを押し付けようとしてしまう。自分のストーリーの肥やしになる人を求めてしまう
町に都合の良い若者を求めてしまうと思います。
しょうがないことだとは思います。誰もが自分が大事。自分が今乗っているストーリーを主体に考えてしまう。
この町のストーリーに相応しい人、このストーリーにとって都合の良い人が現れないかと思ってしまう。
町は、地域は、社会は、自らのストーリーのわき役を欲するし、自らのストーリーを彩ってくれる誰かを欲するし、自らのストーリーを引き継いでくれる人を探します。
仕方ないことですし僕もそういう思考に陥ってしまいますが、非常に傲慢です。
繰り返すけれど、誰も他人のストーリーに興味がないです。間違いないことです。
町はストーリーを押し付けるのではなく、与えなければならないと僕は思います。
町だけじゃありません。職場もそうだと思います。あらゆる体験がそうだと思います。
誰もが自分の経験を保存し、加工し、シェアして、一面的であれ、自分のストーリーを作っているというのは、各SNSを見れば自明のことでしょう。
「ここにいる自分」を誰かに話したくなるとか、「これをやってる自分」が誇らしいとか、「ここを見つけた自分」をほめてやりたいとか、「ここで得た経験」が糧になってるとか、そういうものがなければ、どんな舞台も廃れていくのです。町が廃れるのはそのせいだ。何もないからじゃない、ストーリーがないからだ。
そのためには、「一体どんな人がどんなストーリーを抱えていて、自分に何ができるだろう?」という視点で考え続けなければならないと思います。
他人にクソゲーをやらせるなってこと
余談だけど、「若者」とあえて言っているのは、ストーリーを重要視する傾向がいわゆる若者世代に顕著だからです。
もちろんこの世代は全員という話ではありませんが、例えば今の20代や30代に、田舎に仕事あるから来い、とりあえず食うに困らんぞ、家族を持って十分養っていけるぞとか言われても興味がないでしょう(新型コロナの影響もあり経済がガタガタな昨今ではこういう安心感が欲されるかもしれないとは思いますが)。
そう、時代や状況により「そういうストーリーを選ぶしかなかった」みたいな状況は頻繁にあるけれど、ストーリーを自分で選び、作る力とか、別のストーリーに向かう力みたいなものを奪っちゃいけない。
やりがい搾取にならないようにすること、「好き」を人質にとって奴隷としないこと、「次」につなげること、もてなしすぎてヌルくしないこと、などに配慮する必要があると思います。
若者を求める町、付随して地域おこし協力隊、各企業、僕のような個人などなどは、このことをよく考えなければならない。
これはゲームの感覚です。ありていにいえば他人の人生をクソゲーに費やさせるなってことです。
難しすぎても単調すぎても簡単すぎても奇抜すぎても魅力はありません。レベル上げだけ延々とやらされるけどボスなんかいないとか、経験値は稼げない仕組みになってるのにボスだけやたら多いとか、そういうことしてたらダメなんす。
きっとこの時代、誰かの人生を豊かにするって、食う寝るところに住むところを提供するってことよりもっと、ストーリー感覚ってのが必要なんだと思うのです。それも自分じゃない誰かのストーリーを尊重するって感覚が。
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