若者が都会に出ていく理由と、求めるアイデンティティの細かさ

発想と行動を記録する

「若者が都会に出ていく理由」「若者が田舎からいなくなる理由」

このブログでは何度かこの話題を書いているのですが、大事だと思うことはやっぱり何度も書かなければと思います。

というのも、このブログを運営していると「若者が都会に出ていく理由」とか「若者 田舎 出ていく」とかで検索する人が結構いることが分かるのですが、どうもそういう検索をする人に返答できているかが不安だから、言い方を変えたりアプローチを変えたりして伝えなければと思うのです。

僕は長い間「田舎(自分の故郷)、暮らし、コミュニティ」に関してこのブログで考えてきましたから、どこまで行っても持論の域は出ませんが、こうじゃないかな?という答えには何となく辿り着いています。

重要なキーワードは「アイデンティティ」です。

若者が求めるアイデンティティ、この時代に生きる人々が求めるアイデンティティの形。そういうものに肉薄しなければならないのではないか、というのが僕の持論の主なポイントです。

アイデンティティと言っても分かるような分からないようなだと思うのでゆっくり説明します。

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アイデンティティを考える

自分が何者なのか。自分とは何なのか。自分の核はどこにあるのか。

アイデンティティと言えば身分証明を連想するので、免許証やパスポートに書かれている自分を保証する基本情報くらいにしか思わないかもしれませんが、もっと別の言葉で、自分の言葉でピンとくる言い方を探す必要があると思います。

「これがなければ自分じゃないと思えるようなこと」と言い換えても良いかもしれませんし、「自分の心が高揚する瞬間」を思い浮かべるような、そんな映像的なことでも良いかもしれない。近い言葉に「レゾンデートル」というものもありますね。そちらの方がピンとくるという方もいるかもしれません。

しつこくいきます。例えばあなたの身近な誰かが記憶をすべて失ったとします。姿かたちは前と同じですが、どうも前と同じ人間とは思えない。なぜでしょうか。

この漠然とした問いに答えるのが、アイデンティティを考えることにつながると思います。

例えばそのあなたの身近な誰かは、以前とてもお酒が好きだったのに、今では興味を示さない。まるで自分の知っているこの人ではないみたいだ、と感じる。

では自分はどうでしょう。自分の自分らしさ、名前とか所属とか役職とかそういうこととは別の、自分が今まで積み上げてきた自己像、自分の心や身体が持つ指向性、自分のあるべき姿、自分が身を置くのに心地よい世界観。

アイデンティティに関して、あらゆる表現をするべきだと思います。

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アイデンティティを満たしたい欲

田舎から人が出ていく理由、若者が都会へ行く理由。

もちろん、仕事や出会いを求めてという動機を携えていたりするかもしれませんが、それはとてもとても表層的なことです。

その背後には必ず「アイデンティティを満たしたい欲」があると僕は考えているのです。

例えば「仕事なら田舎にだってあるさ、都会より生活費はかからないし、むしろ都会で暮らすより贅沢かもしれないぞ」という文言がまったく響かないのは、そんな暮らしではアイデンティティが満たされないからではないでしょうか。

アイデンティティが漠然と求めるものを言語化するのは難しいことかもしれないです。いや、細かく細かく言葉を尽くさなければならないことで、ひどく面倒なのです。自分だけが分かってれば良いことでもあります。

仕事が終わるのはいつも夜の10時、星が刺々しい光を放つ真夏の夜、湿る空気で革靴がアスファルトに粘りつくようで、足取りは重いがコンビニに立ち寄って缶ビールを一本買って帰るのがきっと何年先も覚えていられるくらい切なく実感と結びついている。

通いなれたコンビニの店員さんのシフトも何となく分かっちゃってたりして、忙しそうだったら気の毒に思ったりして、そんな筋合いはないのだけど、同じ時代を生きているという感じがするのに、向こうも多分自分のことをいつも来るリーマンくらいの認識はあるはずなのに、一生友人にも仕事相手にもならない、下の名前を知る日も来ないのが分かる安心。

四階建てのマンションの四階に住んでいて、高さが足りないからエレベーターはついてない。仕事帰りに四階まで足を運ぶのはしんどいから、いい加減引っ越したいなと考えているけれど、あのコンビニもそうだし、あと、お隣さんとか、深夜でも捨てられる立派な蓋つきのゴミステーションとか、駅まで信号を回避していける通勤の道のりとか、夜、向かいの公園の木陰で逢引するカップルの雰囲気とか、そういう景色全部取り換えるのはもっとしんどい。

隣の部屋の住人とは滅多に顔を合わさないが若い女性で、自分ほどではないがたまに帰りが遅い夜がある。どこかで飲んできたのか仕事が遅くなったのか分からないけれど、ドアを開け閉めする音が遅くに聞こえると、彼女もあの階段を上ってきたのか、とか当たり前のことを考えながら労って、俺たち毎日、これからもこのくらいゆるゆると辛い日常が続けば結構幸せだよねとか、語り合う日は絶対に来ないけど、お互いに思えていることが分かるような、そんなよく分からない友情を感じたりする。

 

食う寝るところに住むところじゃ足りない

延々と書けるのだけどこのくらいにしなきゃですね。

生活ってこういうことじゃないかと思うのです。

もちろん、田舎を舞台にしても同じように延々と書けるでしょう。だけどこうやって細部にスポットライトを当てながら生きることを考えたとき、自分がいたいのはどんな世界観なのか、どんなライフスタイルと、どんな思考スタイルなのか、ということを考えて、僕らは生き方を選ぶものだと思います。

そうやって感覚的に選んだときに、田舎には理想の暮らしがなかったり、少し足りなかったりするのでしょう。

仕事がとか、そういう条件じゃなくて、会話とか、動線とか、景色とか、もっと言葉を尽くすに足る、説明を要すること。誰が見ても明らかな名前、職業、役職、家族構成、年収、住所などでは語れない、その人自身が語れば活き活きする細部。

生きられれば良いわけじゃない。食う寝るところに住むところがあれば満足できるわけじゃない。いかに生きるか、いかに自分の人生の細部に注意を払うか。

田舎にそれがないとは言いません。実際僕は田舎に住んでいますし、さっき言った通り、細かな物語を延々と書くことができます。田舎には田舎にしかない景色がある。

良い悪いじゃなくて、なにが「しっくりくるか」なんだと思います。どこにいる自分が好きなのか。どんな景色に飲まれている自分に安心するのか。

言葉にできない部分を言葉にしなくても伝わる感覚

じゃあ結局、結局、なんで都会が良いんだ、どうして田舎じゃダメなんだ、という疑問には答えられないです。

これは難しく、残酷な問題です。言うなれば、「言葉にできない部分を言葉にしなくても伝わる感覚」が、同世代の人間が多くいる場所にしかない、という事実があります。

以前、都会に若者が集まるのは都会に若者がいるからだ、みたいなことを書いたこともありますが、結局のところそれに尽きると思います。

よって、強いて言えば田舎に必要なのは、「言葉にできない部分を共有する感覚」ではないでしょうか。少なくともそういうものがあって、実はそういうものが生活や暮らしのほとんどを占めるということに注意を払う度量です。

とは言いつつ、それは時代を共有する人間同士にしかないものだと思います。

別のアプローチを考える必要がありますが、それについては後日書きます。

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