僕らは笑いたがっている

コミュニティ・メカニズム

『寺山修二の芸術論集 パフォーマンスの魔術師』という本を読んでいるのだけど、ちょっと気になるところがあったのでメモしておこうと思います。

いま若い連中ってのはね、とにかく笑いたがってんですよ。これは許せないですよ。むかしはね、大学なんかへ話にいくでしょ、すると学生は笑わないですよ。非常に厳しい緊張感があって、こっちもやっぱり喋ることに一所懸命だったですけどね。いまはとにかく最初から笑うのを待ってるね、学生は。だからまあ井上ひさしとか、つかこうへいとか、とにかく笑わせる作家が受けるんです。笑うってことは客観的な距離を置くってことでしょう。言わばアウトボクシングだね――後略

『寺山修二の芸術論集 パフォーマンスの魔術師』思潮社 168p

ここで言う若い連中ってのが、この発言当時の若い連中、おそらくだけど70年から遅くても80年代の大学生であって、今現在2019年の若い連中のことを言っているわけではないのは当たり前のことだけど、それでも、「今」の僕らにも当てはまりそう。

「とにかく笑いたがってる」ことに対して許せない感情は僕にはないけれど、確かに僕ら「笑い」を常に伺ってる感はあるなと思います。

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異常なまでに笑わせあう

言われてみれば、僕らは笑っても良いタイミングを常に伺っているかもしれません。

笑える隙と言っても良いでしょうか。

単純に日本にはお笑いブームと呼べるような現象がはっきりあって、お笑い芸人が尊敬されていて、「ボケとツッコミ」という日常においても簡単に適用できる型があって、コミュニケーションによってライトな「笑い」が生じやすい文化風土なのかなと思っていました。

嫌な言い方をするとお笑い原因の真似事みたいなコミュニケーションの取り方が根底に備わっている。

まさに学生時代を思い出すと、誰も彼もが笑ったり笑わせたりすることに躍起になっていたように思うし、「面白さ」や「ユーモア」というものは当然備えておかなければならない要素だと感じていました。

笑うってことは客観的な距離を置くってこと

笑いはコミュニケーションを円滑に運ぶための潤滑油的なものだという認識があったけれど、寺山修二が「笑うってことは客観的な距離を置くってことでしょう」と言っているのを読んで、微かにショックを感じました。

僕ら人と仲良くなるために笑いを活用するつもりで、実はそうじゃなかったかもしれない。

アウトボクシングとはよく言ったもんで、それは牽制であって、自分が優位に立つ隙を作る手続きであって、肝心なところに相手を踏み込ませないための手だったと言えなくもない。

だからって笑いたがることが悪いことだと思わないし、ましてや許せないなんて感覚はないけれど、笑いを盾にして何となくぼやっとやり過ごすことが多かったかもな、という点は少し反省しても良いかもしれません。

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