「僕らはみんな人生の主役だ」は本当か。与えられる「主人公」というポジションについて

コミュニティ・メカニズム

僕らはみんな自分の人生の主人公だ、とは言うけれど、それって本当なんでしょうか。

誰もが人生の主役である、主人公であるという命題そのものに、僕はまったく納得はいってない。

自分のことを考えると明らかに脇役だし、モブキャラです。そりゃ僕は自分の主観でものを見ているからそういう意味では主人公に違いないんだけど、一般に言われる主人公って、少年ジャンプの中に出てくるようなヒーロー・主役であって、少女マンガの中のヒロインであって、そういうつもりで「主人公」を捉えていると、なんだかシオシオした感覚になる。

自分を俯瞰してみると明らかに「語られる側」「注目を集める側」の人間じゃない。そんなの10代の頃にはもう分かってた。

でも、「語られる側」じゃないからこそ「語らなきゃいけない」のかもしれないと思う。何かを語ろうとしたときに、もしくは語りたいと思ったときに、僕らは自分が主役だということに気付くのではないか。

スポンサーリンク

「語る手段」を手に入れた僕らは

語る手段は増えたと思う。

こういうブログもそうだし、インスタグラムやツイッターなど、自分を、自分のフィルターを主役にする手段は多様となり、質も高まっている。

質が高まっているというのは、「自分をどう見せたいか」「自分がどんなストーリーの主人公なのか」を上手に見せるのが簡単になったという印象で言ってます。

見せたいところを、見せたいように切り取る、もしくは現実を現実以上に切り取ることが、その気になれば誰でもできるようになった。

そして、多くの人に見られるよう工夫した虚像の自分の方に、現実が合わせに行っているというのが本当のところなんじゃないかなあと思います。

スポンサーリンク

自分で自分に主人公の役割を与えている

これ、ここまで考えて面白いと思うのは、自分で自分に主人公っていう役割を与えてるってことだという風に見えること。

本来誰も主人公なんかではなく、主人公というポジションは与えられるものだと思う。

アニメ、映画、小説。なんでもよいけれど、自分から主人公を目指して、自分は主人公だと自負して物語を進めている人っているだろうか。

きっと多くは、いつの間にか主人公になってしまっている。たまたまおかれた状況、たまたま振られた仕事、たまたま出会ったもののせいで、否応なく主人公になってしまっている人ばっかりなのではないか。

本当の主人公は自分が主人公だなんて思ってない。人より煩わしいものを背負わされてしまって、人より面倒なことに巻き込まれてしまっているだけ。主人公というポジションは、常に与えられるものなんじゃないか。

じゃあ現実の僕らは?

現実の僕らは、自らを主人公と自覚して、そういうものを自分から引き受けようとする。

厄介ごと、大きなミッション、一大事に対して自覚的で、ときにはわざわざそういうのを創り出してまで自らにそれらを課して、自分のストーリーを豊かなものに見せようとする。

僕らは本当に誰もが主人公なのか

誤解をされてしまうかもしれないけれど、そういう風潮をバカにしたいわけでも、本物じゃないと嘆きたいわけでもありません。

僕は今基本的に僕の話をしているのだし。

僕が話したいのは、他人に押し付けられるにせよ、自らに課すにせよ、主人公というポジションは与えられるものでしかない、後付けでしかないのではないかということです。

それでふと思ったのは、今後社会で増えていく必要があるのは「主人公というポジションを人に与える人」なのではないだろうか、ということ。

ちょっと前、感覚で5年くらい前は「リーダー」が求められ、実行力、統率力、包容力がある人間像がブームだった気がする。強さ。多分少年漫画的なヒーローが求められていた。

だんだん「コーチング」とか「マネジメント」とかそういう人をサポートする人間像がブームになった時期があったように思う。メンターっていう言葉もやたら聞いた時期があったような。

今は、人を引っ張るでも、人を指導するでもなく、ただ無責任に役割を与える人、いうなれば「ギバー」的な人間像がトレンドなのではないかと思う。

※ちょっと調べたら「ギバー」って概念はもうとっくにありました。

 

でもここで僕が言っているのは、「役割」を与える人、「物語」を与える人→「誰かを主人公にする人のこと」なので、このTEDの話よりもうちょっと狭義な使い方をしていました。

さて、自分で自分を主人公にする術は増えたし、堂に入っている人も増えた。

だけどそういうことがあまり上手じゃない人もいるだろうし、魅力を感じないという人もいると思う。恥ずかしくてやりきれないとか、そういう人も。

そういう人は「物語を与える人」が向いてるのかも。

与えられた方は、その物語が気に入ればすごい力を発揮するかもしれないし、そうすればその人は自分がもっと好きになったりするかもしれない。

考えれば多くの物語には主人公を物語に巻き込む案内人のような存在がいる。そういう立場を目指すのも一興かもしれない。得とか成功とかは分かんないけど、誰かを主人公にするという行為も楽しいと思う。僕はそういうのけっこう興味あるな。

 

「僕らはみんな人生の主役だ」は本当か。与えられる「主人公」というポジションについて(完)

コメント

  1. Y.Kato より:

    考えた事もない素晴らしい話でした。

    「立場が人を作る」とは昔から良く聞いていましたが、立場を与える人、物語りを与える人ですか……、考えもしませんでしたね。

    しかしVRなどが一般的になり、生活空間の何割かをそこに移すようになれば、立場や物語りを与えられるでしょう。もちろん自分で作って行く人も増えると思います。

    一種、ゲーム的ですが、より実生活に深く関わるものとして成立するかも(Twitterの裏垢やTikTokの趣味垢もある意味、立場の創造)

    • 塚田 和嗣 より:

      Y.katoさま
      コメントありがとうございます。
      このような記事を書く身としては、VR技術の台頭には大変心が躍るものがあります。多面性を持つ人間が社会において無理に自己を統一しようとするのではなく、それぞれの場面で役割を演じられるような未来が、個人的には楽しそうだしストレスレスかもと考えています。見ようによってはディストピア感もありますが、仰る通りゲーム的な世界は、受け入れ方によっては素晴らしい時間を作るのではないかと思います。
      塚田和嗣

タイトルとURLをコピーしました