なんのために学ぶの?「分からない」と言うためさ【長崎に行ってきたよ③】

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だから、旅は自分探しだって思うんだ【長崎に行ってきたよ】 

テリトリーを広げる旅/猫と仲良く【長崎に行ってきたよ②】

に引き続き、今回で③回目の記事になります。

この記事では、原爆資料館でのことを書きたいと思います。

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原爆資料館の写真ない問題

旅立つ前は特に目的地として定めていたわけではなかったんだけど、初の長崎だし、わざわざ避けて通るところでもないだろうということで行ってきました。原爆資料館。

ちなみに今回は原爆資料館にまったく関係ない写真を挟んでいきます。しかも意味も全然ないです。

雨が降ってたってのはあるけど完全にうっかりしてて外観含めここでは写真をほぼまったく撮っていなかったということと、記事にするほどじゃないけど好きな写真を載せたいという欲があるからです。両者のニーズがうまくマッチした形ですね!

あと、正直なところ、原爆資料館とか行っても僕はあまり多くのことは感じられず、ここに書くことも別に原爆資料館に行かなきゃ感じられないことでもないだろうから、後付け感は否めないけど別に原爆とか戦争の話したいんじゃないよー的なアピールでもあります。

展示物や資料自体はこれまで本とか映像で見覚えあるもの(本当に見たことがあるものかどうかはわからないけど既視感があるもの)だし、知ってることも多かった。

爆心地に足を運んだからといって改めて戦争の悲惨さを思い知ったりしない。それは、あくまで僕の尺度ではという話だけど、既に知っていることだった。

川 鏡

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戦争体験と修学旅行生

新鮮だったことと言えば、海外の方がたくさんいて、自分の子供たちにあれこれと説明をしているのを見聞きしたことです。

もちろんどんな話をしているのかは聞こえないけど、写真を見ながら何か子供に教え諭すようにしているのを見ると、何話してるのかな、どういう風に日本を見てるのかな、海外の人にとってはどんな歴史なのかな、というところは気になった。

断言するけど誰もそこまでいろいろは考えてない。

僕も特に何も考えてなかった。ついでに言えばあそこにたくさんいた修学旅行生だって、あまり多くは考えても感じてもいなかったんじゃないか。

僕の高校時代、修学旅行は沖縄で、やはり戦争体験の話とか聞いたんだけど、やっぱり何にも感じてなかったもんな。

でも人は何かを考えたり感じたりするフリはできる。

高校時代なら特に、絶対夜とかにちょっと思ったことを書いて先生に見てもらったりするんだから、それらしいことを書く程度のことを考えることはできる。

心にも無いことを書いて、「改めて戦争の悲惨さを思い知る」ことはできる。

僕だけなんだろうか。感受性が乏しいのだろうか。あまりショックに出会うことはないし、価値観だって世界観だって簡単には変わらない。

決定的な経験をする機会は少なく、たいてい後からあそこが決定的だった、ターニングポイントだったと気づくことの方が多い。

夜明け 電燈

なんのために学ぶの?分からないと言うためさ

たくさんの子供たちの顔を見ていると、「なんのためにこんなこと知らなくちゃいけないの?」と言いたげに見えることもありました。

面白くないしなんか怖いし早く出ようよお腹空いたよって顔。

実は僕だけがそう感じてたのかもしれないし、お腹空いてたのはまあそうなんだけど、でももし僕が海外から来た子供で、素直にそんなことを言おうものなら「いやいやこれはちゃんと見て、知っておくべきことなんだよ」と大人に諭されるかもしれない。

そしたら僕は少々面倒になって「なんのために?」と口答えするかもしれない。

結局こんなの見てどう思えばいいのさ、戦争は怖いとか思えば良いのか、人類の過ちを目に焼き付ければ良いのか。本当に怖いのか、過ちなのか、だれが間違っていて、誰が正義なのか。結局どうなのさ。

すると僕の中の大人が、「そういうのを、分からないって言うために学ぶのさ」と少々クールぶって答える。

思考停止のわからない

多くのことに正解はなく、戦争だって平和だって幸せだって、これが正しいというものを指し示すことはできないし、間違いの上につみあがったものは必ず間違っているとも、正しさの上につみあがったものは必ず正しいとも言えない。

そりゃ決まりきってることもあります。

あそこの店は何時にオープンするとかは、正解があることです。だから僕はちょっと無理してでも11時半くらいまでは原爆資料館にいなきゃならなかったんだ。

でも世の中には知れば知るほど正解不正解の判断がつかず、どの意見も自信を持って支持することもできず「えー、んーどうなんだろうね?ときと場合によるんじゃない?」ってことがたくさんあるように思う。

でもそんな風に言って知ったような感じを装うのもズルいし、何より面白くない。

相談しがいのない人って「ときと場合による」とか「どっちもどっち」とかってすぐ言う傾向があると僕思う。

いやそれは分かってるよ、その上でよ!その上でどう思うかって聞いてんの!って話なのに、そんな分かり切っていることを言って達観した感じにされるのは少々いけ好かない。

ていうか「ときと場合による」みたいなとりあえず否定はできない真理に逃げて、つまり不正解ではないという程度のことを言って、実質考えることを放棄してるだけなのに知った風を装っているってのが苛立たしいんだきっと。

悩んで考えて、「んー分かんないね、難しいね」ってなるなら良いんだけど、最初から考えても仕方ないし、そんなの正解はないよって言うのはバカっぽい、と思う。

長崎 川

本当に何も知らずに言う「わからない」と、知って考えた上で言う「わからない」はきっと違う。

違うからと言ってだからどちらが正しいとかって話でもないけど、とにかく違うんだろうなと思う。

相手にこの人は考えてるなと思われるか、何も考えてないなと思われるかの違いもあるだろうし、自分が自信を持ってそう言っているかの違いもあると思う。

分からないって言えるところまでは分かった!みたいな自信はちょっと大人になった気分を味わえる。

そういう風に思える物事は僕の場合めちゃくちゃ少ないけど、分からないというところまでは分かったという感じは何かを書くきっかけになるし、そこがスタートラインになっているような。

なんのために学ぶの?「分からない」と言うためさ【長崎に行ってきたよ③】(完)

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