地元好き?愛郷心の正体を探れ/なぜ愛着は生まれるのか。

発想と行動を記録する

自分のものには何であれ愛着が生まれるものです。

取り立てて自慢する訳ではないし、客観的に見てそれほど優れていると思っている訳でもない。むしろ自分で悪く言うことすらある。

でも人にけなされると嫌な気分になる。

自分では自分のものを悪く言って良いけど、自分のものを人から悪く言われるとついつい、いやでも・・・って弁護したくなる。

この感じの代表的な例の一つに「故郷」があるのではないでしょうか。

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愛着と記憶

みんな自分の田舎を「ホントなんもないよー」とか「やることなくてつまんないよ」とか平気で言うんだけど、他人に「ここホントなんもありませんねえ!」とか「ここマジやることなくてつまんないですよねえ!」とか言われたら「いやいや待ってくれよ」ってなる。

地元愛が強すぎる人が相手だったりするとマジで険悪になりますよねきっと。

そういうのってきっと、愛着のなせるわざだと思います。

では、この愛着っていつ生まれるのでしょうか。

愛着の正体。

故郷で言えば「愛着」=「愛郷心」の正体。

それは「記憶」にあると思います。

「記憶」にそんな力があるのでしょうか。

 福岡伸一さんという生物学の先生は、記憶についてこんなことを言っています。 『福岡ハカセの本棚』という本から一部引用します。

私たちの体を構成する分子は絶えず入れ替わっています。私たちの自己同一性を担保するものは、少なくとも物質レベルでは何一つありません。 では、何がアイデンティティとして私たちを支え、私を私たらしめるのか。 それが記憶だと言えないでしょうか。『福岡ハカセの本棚』205p

僕たちの体は絶えず細胞分裂を繰り返し、古いものを捨て、新しいものを作り出す作業を行っています。

つまり、数年後には今の自分を構成していた物質はすっかりなくなってしまうそうです。

物質として言えば、今の自分と数年後の自分はほとんど別人だということです。

だけど1年前の自分も、5年前の自分も、10年後の自分も、自分が別人だなんて思わない。そりゃ成長とか変化はするけど、自分が自分であることを疑う人なんていません。 なぜ自分はいつも自分を自分だと思えるのか。

それは記憶があるから、ということです。アイデンティティを繋ぎとめるのが記憶だということです。

もちろん、記憶も時間と共に変化します。私たちの体が最終的にはエントロピー増大の法則に屈し、崩壊せざるを得ないように、記憶もまた儚いものです。『福岡ハカセの本棚』205‐206p

確かに、一方で記憶程あてにならないものもありません。

自分の体よりずっと不確かで、おぼろげです。

しかし、記憶には確かに自分を自分たらしめる力がある。

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思い出補正と懐かしさ

記憶の特徴として、変化はするものの、自分に都合良く変化していくということがあると思います。

昔話は自慢話になってしまい勝ちだという実感は、誰にでもあるのではないでしょうか。

辛い記憶でさえ、それを乗り越えた自分の武勇伝にしてしまうことだってあります。

自分たちの時代は今みたいに甘くなかった、とか言ったりするのがそうでしょう。

過去の自分は常に今の自分よりよくやっていたように見えるものだと思います。

それは記憶が各々の中で都合良く改ざんされるからであって、実体は神のみぞ知る、です。

だからこそ、記憶が引き起こす懐かしさというのは常にある程度の輝きを持っているものなのではないでしょうか。

懐かしいという感覚には少し寂しさも混ざっていて切ない気持ちになるという方もいると思いますが、そういうところも含めて、懐かしさというのは好ましい感情だと思います。

懐かしい何かがときに感傷的な何かを引き起こしてしまうのは、その輝きにはもう二度と触れることが出来ないという確信があるからでしょう。

そういう、まるで星のまたたきのような記憶を見つめれば、例え第三者には何もないような場所でも、独特の輝きが放たれているように見える。

これが、愛郷心の正体だと思います。

つまり記憶には、自分がそこで生きていたということをいつもちょっといい感じに見せる力があり、それが故郷の記憶ということになれば、愛郷心に変わるのではないでしょうか。

惜しみない記憶で愛着を作ろう

もうすこし愛着、愛郷心、というものについて考えてみたいと思います。

過去の光=記憶=星の輝き、ということで、『星の王子さま』からも引用したい箇所があります。

たくさんのバラの花に、自分の星に残してきた一輪のバラの花のことを話す場面です。

「あんたたちは美しいけど、ただ咲いてるだけなんだね。 あんたたちのためには、死ぬ気になんてなれないよ。 そりゃ、ぼくのバラの花も、なんでもなく、そばを通ってゆく人が見たら、あんたたちとおんなじ花だと思うかもしれない。だけど、あの一輪のバラが、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ。 だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。覆いガラスもかけてやったんだからね。ついたてで、風に当たらないようにしてやったんだからね。 ケムシを―二つ、三つはチョウになるように殺さずにおいたけど―殺してやった花なんだからね。不平もきいてやったし、じまん話もきいてやったし、だまっているならいるで、時には、どうしたのだろうと、きき耳をたててやった花なんだからね。ぼくのものになった花なんだからね。」『星の王子さま』102p

  愛着を得るのに必要なのは、決して「良い」記憶だけではありません。

どちらかというとマイナスな性質を持つ記憶も、遠く離れたときには(時間が経ってからは)とても大事なものに思える要素となるのです。

故郷だって同じことです。

何もない田舎町でも、乏しい人口でも、そこには数えきれないほどの記憶が散らばっています。

そんな記憶で埋め尽くされた町の、良いところを語るのは簡単ではありません。

何しろ語ろうとすればいかに不便だったかとか、いかに怖かったかとか、いかに汚かったかとか、寒かったとか、そんな話しばっかりになってしまうかもしれないからです。

だけどそれをみんな大切にしている。

良い記憶は改ざん率が低いせいで、それほど印象に残らないのかもしれません。

だからこそ、もし僕の住む町に新しく訪れる誰かがいるのであれば、まず惜しみなく与えなければならないのは何より「記憶」だと僕は思います。

良い記憶を与えなければと考える必要はありません。

人は強かに記憶を改ざんし、どんな記憶も大切な星の瞬きに変えてしまう能力があります。

だからと言って苦しめると言っているわけではありませんが(笑)、記憶に残ることってなんだろうと考えながら人を受け入れることが、何もない田舎町を好きになってもらう近道なのではないかと思ったのです。

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