際限なく膨張していく欲望と頭打ちの幸福感、「足るを知る」の解釈について

発想と行動を記録する

プレステ2のメモリーカードが出てきて、容量を見ると8MBと書いてある。

頼りない数字だけど初代プレステ128KBのメモリーカードから比べれば当時はものすごいビックサイズに感じたものです。

今やUSBメモリーとかデジカメに使うSDカードの単位はGBは当たり前で、僕が今メインで使ってるカメラ用のSDカードは32GB。スマホのストレージ容量だってなんとかGBだし、きっとだれもがGBの表示に慣れている。

最近はTBを見ることも多くなってきました。

そう言えば昔、家電好きの先輩からTBという単位の存在を聞いたとき、そんなんいつ使うんだよって思ってましたが、なんかもう普通に使ってて笑える。

TBの表示を見ても別に大きいサイズだと思わなくなる日も来るんだろうなと考えると、まるで人間の欲望のようだと思いました。

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際限なく膨張していく欲望と、頭打ちの幸福感

欲望は知らずに大きくなっていて、一度満たされるとそれが一瞬で標準になります。

なんと、いつもそれが丁度良い、もしくは少し足りないと感じるようにできているらしい。

欲望は際限なく大きくなっていくけど、その大きさをいつまでも大きいと感じられるわけじゃない。

僕らの幸福を感じるキャパシティみたいなものは一定で、今80MBの容量を食うゲームソフトを楽しんでいるからと言って、1MBのゲームを楽しんでいた頃の80倍楽しく感じるわけではない。

どうして僕らはこんな設定になっているんでしょうか。

いつもさらに上を、さらに先を探求するようにできているということでしょうか。

その先には一体何が待っているのか。僕らは今は想像できないその何かを、至って普通の気持ちで眺めることになるのか。そう考えると少しゾッとする。

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足るを知る、自分を知る

話があさっての方向へ行ってしまうから軌道修正するけれど、欲望が膨張していくのに対して、僕らの幸福や満足を感じる容量は一定だというこの不思議を、どのように処理すべきでしょうか。

僕らの幸福度を感じる容量もスマホのストレージみたいに容量が決まっているのだとしたら、不必要な欲は捨てるべき、という結論になるでしょうか。いらない写真や動画のデータを削除するように。

本当に自分が必要な欲望、本当に幸福を感じる欲望で幸福のストレージを満たすことが、最大限に幸せになる秘訣だ、というようなお話しになりそうです。

ああ、もしかしたらそれが「足るを知る」ということなのかもしれませんね。

「足るを知る」は「少ないもので十分」、「今あるもので十分」と悟れみたいなニュアンスがあるような気がするけれど、本当は「捨てても良い欲望と追っかけるべき欲望の区別をつける」ということなんだろう。

そのためには、自分って何やねんって部分を深く問う必要があるし、アンパンマンマーチじゃないけど何が僕の幸せで、僕は何をして喜ぶのだ、って何度も何度も確かめなきゃと思うんです。

取りこめる幸福も量も満足の質も決まってるぞ。そのくせ欲望は際限なく膨張していくぞ。

この事実に折り合いをつけるほとんど唯一の賢い方法は、「自分を知ること」なんだぞきっと。

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