食べたものが自然に身体に蓄積するように、読んだものも自然に身体に蓄積する。

発想と行動を記録する

わざわざ食べたものを振り返らなくても、食べたものは身体の中に蓄積する。

わざわざ読んだものを振り返らなくても、読んだものは身体の中に蓄積する。と思う。

もちろん、読んだものを頭の中で反芻して知識として定着するようにするとか、読む前に予習のようなことをして理解度を深めるとか、そういう方法は読書法の正解の一つだと思います。

しかし、常に「読んだ本は必ず自分の身の肥やしにするぞ」「こういう知識を得るためにこれを読むぞ」とする必要はなくて、食べ物と同じで、そんなに考えなくても身体に入れば自然に蓄積されていくものだと思います。

何が言いたいかと言うと、実は自分自身に一番言いたいのだけど、その本のことがなかなか頭に入らなくても、今の自分に関係なさそうでも、もしくは難しかったり面白くなかったりしても、とにかく読め、字を目で追って、追って、追いまくれってこと。

何も考えずに摂取したとしても、読書は十分身の肥やしになるに違いないってこと。

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身体の中に蓄積した活字が自分の目を通して見る世界を変える

たまに活字中毒の人が「本が栄養だ」とか、「活字をむさぶり喰う」というような表現をすることがあると思います。

たぶん誰もが分からなくもない感覚だと思います。読書は何となく食事と似ている。娯楽性があり、同時に自らの肥やしになるもの、という感覚。

自分の中に取り入れたものは自然と蓄積して、いつしか表に表れるようになる。

食事の場合、体型に表れたり、場合によっては数値に表れるかもしれません。

読書はそんな風に分かりやすく目に見えるわけではないかもしれないけれど、確実に自分の目を通して見る世界の方が変わる。

目に見える世界によって行動や思考が変わるのは明白で、つまり、ゆっくりではあるけれど読書はその人を形作ると思う。

だからこそ読むものを選ばなければならないかもしれないけれど、偏食にだけ気を付ければ良いと思う

だからこそ読むものを選ばなければならないと思います。

しかし、ややこしい話ではありますが、「読むものを選ぶ」ということは「読むものを選ばない」ということと同義ではないでしょうか。

食事も読書も、偏食はあまりよくない。

特に読書の場合、偏った読書は偏った思考、偏ったものの見方を補強することになると思うからです。

むしろ、「読むものを選ぼう」とすること自体、既に「偏った趣味思考」を道具にしているわけです。

食事の偏食は身体に不調が表れるから止められるかもしれないけど、読書の偏食はそうはいきません。だからこそ意識的に読むものを選ばず、いろいろなものを読むという心意気が必要なのではないでしょうか。

読む本を選ばずに選ぶ方法

もちろん、興味の無いものを無理に読む必要はないと思うけれど、何となく目についたものとか、誰かがお勧めしてるものとか、話題のものとかにはとりあえず手を出す、みたいなスタンスが良いんじゃないか、と個人的に思うわけです。

出会いを大切にする的なことです。

じゃあその知らない本との出会いはどうすれば得られるのかというと、本を読めば巻末の解説で別の作品や研究に触れていたりして、たいてい次に読む本が3冊ほど増えます。

また、この時代多くの方がご自分の読書を記録し公開していたりしますから便利です。

言わずもがな、図書館も便利ですよね。

あそうか、本を過度に選ばずに読書をするために図書館ってものがあるのかもな。これ明日改めて書こう。

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