ゆるキャラは現代の神話になるか

コミュニティ・メカニズム

神話は繰り返し語られてきたから伝えられてきたのである。ではなぜ繰り返し語られてきたのだろうか。その伝えてきた社会がそれを要求してきたらからに違いない。その社会を存続させていくためである。――中略――しかしこの世である限りさまざまな問題が起こる。そして出て行きたい者もいるに違いない。そこでそこが始祖に選ばれた良い土地であることを繰り返し語って、共同体の繋がりを確かめていかなければならないのである。

『文学はなぜ必要か 日本文学&ミステリー案内』より抜粋35‐36p

もしかしたら、各地域にいる「ゆるキャラ」は、現代の神なのではないかとこの辺りを読んで思いました。

考えてみればゆるキャラどれも決して人ではないし、かと言って化物でもないし(中には化物みたいなのもいるけど)、その地域にいる神様の仮初の姿だと言われればそんなような気がしてくる。

あくまで「人を模した何か」であって、何かに親しむための何か。

いずれにせよ、先人がコミュニティを守るために神を利用したように、現代の僕らはゆるキャラを利用しているのではないか。

そう考えてみるのは面白いような気がします。

あ、こんな記事ありました。あまりこの記事とは関係ないけど参考までにどうぞ。

日本の動物信仰/ゆるキャラのルーツは神様だった!?

Contents

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コミュニティを守るために語られた話

昔っから我々は「物語の力」というものを利用していたのですよね。

神話に限らず、民話みたいな形で、世代を超えて伝えられる何かがある。

「神話」と「コミュニティの存続」ということに関して言えば、まだまだ科学が発展しておらず、世界が謎だらけだった頃、まだ神様の権威が存在していた頃は、神様が治め、神様に守られている土地を離れるのはなんか怖い。神の庇護を受けられないから。

例えば村長とか首長と呼ばれる存在、もしくは地域のシャーマンに、まことしやかに「この地を離れてはならぬ」って言われたら、ちょっとやそっとのことで出て行こうなんて思いませんよね。

駆け落ちして逃げた男女とか、のっぴきならない理由でその場から離れなければならなかった若者が出れば、そういう事件と天候異常・不作・病・死とを結び付け、神の怒りとして語られる。「罰が当たる」みたいな言い方で、そのコミュニティ独特のモラル教育がされる。

そもそもそんな風に出て行かざるを得なかった人たちの末路はどちらかと言えば大変なものだっただろうから、残念な結果になってしまうことも多かっただろう。

それを見せしめて、「ここから出て行くとあんな末路になる」って言われてゾッとしたりしたのかもしれません。神威を守るために人が神の名を騙って天誅を食らわすなんてこともあったかもしれない。

多くはでたらめや偶然やこじつけなんだけど、人はどうしても過去の一点と現在の一点、そして未来の一点を結び付けて考えてしまうから、つまり物語的な因果関係を探してしまうから、そういうやり方は有効だったのでしょう。

因果関係の積み重ねで、神という存在感を高め、神話で以てコミュニティを守る。そんな風に物語は使われてきた、ということでしょうか。

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『ひぐらしのなく頃に』に見る地域コミュニティの強さ

思い出したんだけど、『ひぐらしのなく頃に』もまさに神話で人を縛るコミュニティが舞台になっていましたよね。

そうは言ってもずっと昔に見たからかなりうろ覚えのところが多いです。

ということで

ウィキペデアベージのひぐらしのなく頃に

ひぐらし資料集のページ 

あたりを見て軽くおさらいしました。

『ひぐらしのなく頃に』の舞台は雛見沢村という小さな村で、田舎の鄙びた村らしく長閑で、コミュニティの関係は強固です。

雛見沢村では「オヤシロ様」の存在が信じられており、毎年オヤシロ様を祭る「綿流し」という祭事を行っています。

その背景には「オヤシロ様の祟り」があります。雛見沢村では毎年わたながしの日に、一人が失踪、一人が死亡するという事件が起こっており、その連続怪死事件がオヤシロ様と関連付けて考えられているのです。

(確か)村民には知られていませんが、雛見沢村にはその土地特有の風土病(雛見沢症候群)があり、それが発症し悪化すると死に至ります。

雛見沢症候群の発症条件は、「村から出て行くこと」と、「精神的に不安を抱えること」のいずれか。これは症状悪化の条件でもあります。この雛見沢症候群の末期患者はしばしば死に際に「オヤシロ様」を見ることからも、「オヤシロ様の祟り」が信じられることになる。

いくつかの真実や偶然が「オヤシロ様」に結び付けらることによって、地域住民の間には「やってはいけないこと」「やるべきこと」が明確に区分けされ、共有される。

具体的に言えば、地域住民同士で疑いあったりいがみ合ったりせず、協力しあって暮らすことが、自然とその村で平和に生きる必須要件となる。それが独特の連帯感となって、絆とも共犯関係とも見える団結を生み出している。

神の権威が乏しくなり、代わりに現れたのがゆるキャラ?

すごく省いて書いたから『ひぐらしのなく頃に』を見たことのない人はちんぷんかんぷんかもしれないし、詳しい人にとっては痒いところに手が届かない説明になってしまった気がするけど、ここで言いたいのは『ひぐらしのなく頃に』における地域コミュニティは神を巡るあれこれ(神話)により、存続しているところが多分にあるということ。

で、思ったんだけど、これって恐怖で人を縛るやり方でコミュニティを維持してるってことですよね。人を縛るのは恐怖や不安を利用した方が良いということだと思います。

でも現代人は簡単に怖がらなくなった。恐れの感情は科学の知識で打ち消せるし、伴って畏れの感情も乏しくなっていった。

実際地域のお祭りも衰退の一途を辿るワケだしそういう神的なものの権威や威光というものは良くも悪くも今全然機能していませんよね。

あ、ひぐらし資料集に載ってたけど、「オヤシロ様の祟り」も時代を経るごとに威光を弱めて行った経緯があるらしいです。雛見沢症候群の末期になる人が減って、オヤシロ様の目撃例が減るに従って、だんだん信仰が薄くなった。そこに連続怪死事件が起きたから、「綿流し」の風習も回復したとか。

やっぱり恐怖の感情や不安を回避したいというのは強い。

だからと言って恐怖で縛り付けるなんてやり方は人道的じゃないし、コミュニティって守れれば良いってもんじゃないよねっていうのがありますよね。

成長・発展・維持は良いことなのだから、良い方法で行われるべきという一種の潔癖さが現代にはあると思います。

「良いまち」をつくらなければならないまちづくりの雰囲気が苦手。

そこで、神に代わる存在として発明されたのが、「ゆるキャラ」なんじゃないかと思うのです。

その土地を象徴した造形で、かつ親しみやすいキャラクター性を備えていて、みんなの人気者で、地域の誇りである、という設定を持っている。

そんな存在を軸に、みんなで力を合わせてコミュニティを盛り上げていきましょう、どうにか存続させましょうという、現代の地域の課題を一身に背負った、神的な役割を負っていると思う。

ゆるキャラ信仰とは何なのか

いまやってるの「ゆるキャラ」に関する真面目な考察とかじゃないです。僕じゃそんなのできないし。

なんなら若干の皮肉を込めていると言っても良い。ゆるキャラは神になり得ない、って思ってる。

でもじゃあなんでこんなのを書くのかと言うと、少し現在から距離を置いて、現在の地域とかコミュニティ形成のあれこれを眺めたいと思ったから。ゆるキャラはその材料になると思ったから。

20年後。今の小さい子が市役所とかに入る歳になって、ある日倉庫の奥に変な着ぐるみを見つける、みたいな状況を考えてみる。

聞けばどの地域にも一体はいる、オリジナルのキャラクターらしい。

最近はゆるキャラブームも去って日の目を見ることはなかなか無いけど、捨てるに捨てれなくて放置されている。哀愁と汗臭さを漂わせ、クタッとしてる魂の抜かれた神を見て、若者は

「なんでこんなもん作ったんすか?」って言う。

「あの当時はゆるキャラ信仰ってのがあったんだよ」

「なんすかそれ?」

「いやよく分からないんだけど、どの地域もゆるキャラを作って祭り上げて囃し立てるのが流行ってて、実際人気のヤツはテレビで引っ張りだこだったもんでさ、逆にゆるキャラがないなんてあり得ない時代だったんだよ。まあ当時は、各地域が神頼み的なノリでゆるキャラに縋るようなギリギリの時代だったってことだよ。それだけ地域コミュニティを守るのが難しかったってこと」

この若者に、この時代の流れというか、空気みたいなものを伝えるための準備として、今ここでゆるキャラを考えてるという感じです。

神話に必要なものとゆるキャラに足りないもの

神話に重要なのは、「なんかよく分かんないけど信じちゃう」ってことだと思う。

なんでか分からないけど「神社にゴミ捨てたら罰が当たる気がする」とか、「初詣で一生懸命お祈りしたら今年はいい事が起る気がする」とか。

科学的な頭で考えればそんなものを信じることは合理的ではないんだけど、そういうのは置いといて信じちゃうって辺りが神性なんだろう。頭では信じてないけど、心のどこかで気にしちゃうというか。何となくおろそかにできず、捨て置けないという感じ。

ゆるキャラにそれがあるかって言えば多分全然ない。期待してるのはあくまで経済効果だったりするからゆるキャラに関するあれこれの努力は「設備投資」でしかなく、神秘的な匂いなんてしない。

投資した側はもちろん別だけど、関係のない人でそんなのに威光を感じる人は少ない。

そもそも「ゆるキャラ」は「神」だって勝手にここで言ってるだけだから、「ゆるキャラは神か?いや神になり得ない」なんて言うのも変な話かもしれないけど、それでも地域におけるゆるキャラにかかる期待とか、力の入れ方とか、活躍の場の多さとか、どうにか盛り上げようとする意志とかそういうのを見ていると、何らかの信仰なんじゃないかと思ってしまうのです。

ステッカーやストラップ作ったり関連するお菓子作ったりテーマソングやCD作ったりしてなんで売れると思うの?と言えば、作る側は「何となく信じてるから」なんじゃないのと。

なんとなくおろそかにできず、捨て置けないからなんじゃないの。みんなやってるからやらなきゃ、やらん訳にいかんべって思ってるからなんじゃないの。

経済効果という超合理的な結果を目的にしてるのに、理屈を脇に置いてひとまず信じる、とにかく意味は分かんないけどやることやれば理想通りの結果がついてくると思ってるんじゃないの。もしくは受験前に神社にいくときみたいに、やらないでおくのが怖い、とか。

だから神かよって言ってる。

でも残念ながらその神性はまやかしで、人工的過ぎて、物語として浅いから、威光が及ぶのはごく限られた領域だけ。その威光が認められるのは実際に経済効果が目に見え始めたときだろうし、そのゆるキャラの名を言えば出身地が分かってもらえるレベルに達したときだろう。

それぞれ地域の特産とかイメージとかを象徴した、本当に誇りとか愛着の詰まった存在なのに、そういうものが「地域の設備」として使われてしまう切なさが見え隠れするから僕あんまりゆるキャラって好きになれないんだと思う。

 

ゆるキャラは現代の神話になるか(完)

コメント

  1. 通りすがり より:

    同じようなことに興味を持っているので、とても面白く読めました。ただ、ほんの少し見方を変えてみると、「豊作」のために狐を祭るのも、「経済効果」のためにゆるキャラをまつるのも構造的には同じな気がします。実際のとろろ、ご利益として謳われている「経済効果」がゆるキャラとどのように関係するのか…ゆるキャラの仕掛人たちの中で、「合理的」に説明できる人なんているのかなーと思ってしまうからです。極論かもしれませんが、人間は神を崇めていた昔と何も変わっていないのかもしれません。信仰の対象が変わり、「神性」の代わりに「合理性」を崇めているだけで、どちらにしろ手に負えない現実にあがらおうと必死で「合理性」という幻想にしがみついているのかも…と僕は思っています。サルから人間まで数百万年と言われていますから――人間、そう簡単に変わるものではないのではないかなーと。

    • 塚田 和嗣 より:

      通りすがりさま

      コメントありがとうございます。
      記事の中で書き足りなかったところ、まとめきれていなかったところを指摘していただいたような気がします。

      「合理性という幻想」というのはまさに誰かに言って欲しかったことでした。非常にスッキリしました。

      頂いたコメントを読んで改めて考えてみると、ゆるキャラは「合理性の化身」とでも言えば面白いかもなと思います。通りすがりさんの仰る通り、崇めているのは合理性なのだけど、その正体を知っている人はいない。
      そういう「怖さ」というか「ちぐはぐ感」をきっかけに書いた記事でした。

      読んでいただき、ありがとうございました。

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