見惚れるようなブログを書く人はきっと消しゴムの使い方がうまいという妄信について

最近よく思うのが、子どもの頃とか普通に日記帳に日記書いてた人のブログってやっぱなんか面白いなあということ。

というか、ブログを読むとなんかそれ分かる気がするのが不思議だなと。

この人、今まで紙に書いてた日記をブログって媒体で書くようになっただけなんだろうな(まだ紙にも書いてるかもな)っていうのが、読むと何となく分かる。それが面白い。

もちろん勘違いの可能性もおおいにあるのだけど、そういうブログに感じる安心感に対する嗅覚のようなものが、僕にはあるような気がする。

一日にあったことを反芻して、記録して、日々をコレクションするように、埃がかぶらないようにする様が堂に入っていて、慣れてるなあ、根が丁寧だなあって思う。アナログで日記を書いていた人なんだろうなって感じる。一種の風格があるのです。

そういうとき、憧れに近い感情が芽生え、有体に言えば見惚れてしまう。

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消しゴムを使うのが上手な子

この憧れの感情について、の原体験について語る形で、もう少し掘り下げてお伝えしたい。

これ言って伝わるか、というか気持ち悪さしか伝わらないんじゃないかって思ってすごく不安なんだけど、昔、同級生の女の子の消しゴムの使い方がとても上手で、やたらと見てたことあります。

僕の消しゴムの使い方と全然違うのです。消しカスがキレイにまとまるし、消したあとにノートが汚くなってない。もちろんノートもクタってなってない。

消しゴムを使い終わったら誰しもが手の甲の小指側の面で消しカスを払うと思うんだけど、その動作も僕のとはなんか違う。僕はカスを払ってもノートの上が小汚いんだけど、その子のノートの文字も、消した痕跡も、ちゃんと全部なかったことになってる。

しかも、ペンケース(僕のは筆箱だけどその子のはペンケースって感じがする)がキレイ、ってのともなんか違う、文房具を入れるものとしてちゃんと機能しているというか、こなれてる印象がある。汚れるところは汚れて、ファスナーのところとか使いこまれてる感じがあるんだけど、それは道具の収まりの良さを表していて、開けやすさを表している。

一番違うのがやっぱりそこに収まる消しゴムだった。消しゴムは小さく丸く、丁寧に使われている。僕の消しゴムはすぐ折れちゃうし、だいたい4分割くらいになるのがオチなんだけど、その欠片をなぜか失くす。そんなに小さくなるまで使えたことねえぞって思う。

もともと一個だった四角い消しゴムが、小さい豆みたいなかたまりに育て上げられているところがすごいと思う。

僕が辿りつけない領域

そういう気持ちを全部込めて、「おまえ消しゴムの使い方うまいよな」って確かついに言ってしまったんだけど、「ありがとっ」って完全に流されてしまった、というか別にどう言って欲しかったということもないんだけど、ああ、届かない、憧れが届かないというちょっとしたショックを感じたのを覚えてる。

僕はこれまで、日記をつけたことありません。

野球部の頃は練習の内容に自己採点とコメント付けた手帳みたいの持ってた時期があったけど、あんなの日記と呼べるようなもんじゃないし、本当に汚いものだった。

僕にはあんな丁寧さがない。辿りつけない領域があることが何となく分かる。それは文字の美しさや消した跡が見えないこういうブログにも表れるような気がする。

ブログであれば多少粗は隠せるかもしれないけれど、僕は子どもの頃に抱いた大きな憧れのセンサーで以て違いを感じ、ある種のブログに見惚れてしまう。

ああきっとこの人、消しゴムを使うのが上手だったに違いない、いつも人に見せて恥ずかしくないノートを取っていて、最後まで消しゴムもえんぴつもノートも無駄にせず使える人に違いないと思ってしまう。

見惚れるようなブログを書く人はきっと消しゴムの使い方がうまいという妄信について(完)

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