【中島敦】『山月記』李徴の詩に足りなかったものは何だったのか

自分で考える創作論

 

中島敦『山月記』でぼくがずっと引っかかっていたのは、虎となった李徴が道の途中で袁傪と出くわしたとき、書きとって残してもらうために自分の詩を聞いてもらう場面。

李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点にて)欠けるところがあるのではないか、と。

疑問は大きく2点。

「第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点にて)欠けるところがあるのではないか」

ってなに!?ってことがまず一つ。「どこか非常に微妙な点において欠ける」ってなんだよ!李徴もそれが何なのか知りたかっただろうなと。

二つ目の疑問は、もし「どこか非常に微妙な点において欠ける」と袁傪が思ったとき、これを口に出して李徴に伝えていたらどうなっていただろう?という点。

この記事では大きくこの二点について書いていこうと思います。

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李徴の詩に足りなかったものはなんだったのか

巧いけど微妙に何か足りない、と言われるのは、芸術分野を志す人にとってはめっちゃくちゃ怖いところですよね。

よく書けてると思う。だけどなんかこう、響いてくるもんがないんだよね、という感想って本当に辛いだろう。

別に普通に面白かったよーって言ってもらえても、すごい!とは言われない。そういう、手応えの無さを感じている実作者やクリエイターは多いのではないでしょうか。

袁傪が頭で考えたのはそういう人に対する評価。巧いけど何か足りない。実力があるのは間違いないのだけど、プロとしてはやってけない気がするなあ、言わないけど。

ちなみに詩作に関してですが、袁傪もまた李徴のように地元では神童とうたわれるほどの秀才だったのではないでしょうか(李徴が神童と言われてたかどうかは分からんけど多分そうだろう)。

また科挙試験に合格しているとしたら、一定以上の教養として詩作能力も身に付けており、モノを見る目もあったはずです。

だからまったくの素人が無責任に「なんか足んない」と言ってるわけじゃない。テストなら100点。だけど満点ってだけなんだよな、という、詩を芸術として吟味する感覚を持ち合わせていたと思います。

ってことは、袁傪の感覚って一般市民よりかなり高いレベルで、かつ詩作で食っていこうと思うような芸術肌ではない、多分世にも稀な信頼できる一般人(教養人)の感覚なんです。

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李徴が変身したのが虎というところに色々表れてるんじゃないの

山月記は『人虎伝』という作品を土台として作られたものです。

だから李徴が虎になる、という部分は決まっていたことではありますが、山月記の文脈において、李徴が変身したのが虎だったということにはいろいろと表れていると思います。

僕が感じているのは「人間止めてまで成り下がったものが人のよく知るところである虎だった」という点が致命的だったんじゃないの?ということです。

詩作のために「悪魔」になるとか、奇っ怪な概念となり人の世を睥睨するとか、その域までいけばよかった。人の理解の及ばないレベルにまで達すれば良かった、かもしれない。

結局詩の道の頓挫も虎への変化も李徴の「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」が招いた結果であるという分かりやすい説明に堕ちており、詩作の権化となったわけじゃなかった。

それどころか話を聞けばなんか共感できるような、同情したくなるような感じさえする。

詩だって、素晴らしいものであるのは分かる。言うだけのことはあるということは分かる。だけどそれだけ。いわば理解できる、という点が致命的だった。

僕らはいつも知らないものに出会いたいですよね。もしくは知ってるつもりだったけど分かってなかったこととか、言われてみればそうだ、ということとか。

理解できるものって、そういう意味で致命的で屈辱的だと僕は思うのです。

人間じゃなくなるという劇的な展開にありながら、底が知られてしまう(所詮虎)、ということそのものが、李徴の詩そのものを表してるんじゃないでしょうか。

もし袁傪が「どこか微妙な点において欠けているものがある」と口に出して言っていたら

もし袁傪が、「どこか美妙な点において欠けているものがある」と李徴に思ったことをそのまま言ってたらどうなってたかな、って思うのです。

李徴は虎になり、自分がいかに傲岸不遜な態度を撮り続けていたか、いかなる他人も見下し謙虚になることなく、師を仰ぐでも仲間と研鑽をつむでもなく、プライドが邪魔をして、そんな基本的なことさえできていなかったかを悔やみます。

反省しているに違いないのです。自分のダメだったところ、こうすれば良かったことを思い知ってるに違いない。

じゃあその反省した李徴が、袁傪に本当のことを言われたらどうするか。まあ巧いけど、どこか微妙な点において欠けてるものがあるよ、と言われたら、李徴は素直に受け入れますかね?

僕は受け入れられないと思う。たちまち理性を虎に明け渡し襲ったかも。

いや受け入れるべきだと思うのです。なんなら積極的に感想を仰いで、どうかな、俺の渾身の作なんだけど、もう俺虎だし、ダメだと思ったら君が引導を渡してくれ、くらいのことを言っても良いと思う。

だけどたぶん袁傪が正直に感想を言っていたら、お前みたいにつまらない役人に俺の詩の崇高さも深みもわかるわけがない、という気分になっていたのではないか。

虎になってもなおかつてのように接してくれる友でさえも見下していたのではないかと思うのです。

袁傪が李徴の詩の物足りなさを言えなかったという事実が大きな壁だ

袁傪に感想言われてたら李徴はダメだったと思うなと考えるのは、例えば以下のような語りを読んでです。

自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなっていよう。ところで、その中、今も記誦せるものが数十ある。これを我がに伝録してきたいのだ。何も、これにって一人前の詩人をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

本当は心から賞賛され、実作者不明であっても歴史に残る名文だと世の人々の評価を得たくないわけないと思う。

一人前の詩人面したいんだろ本当は。でもそれを傪には言わず、ダメだったけど頑張ったってところは評価してよ、いくつか覚えてるのあるから後世に伝えて欲しいんだ、って言うのですよ。

潔いフリをして、それでもまだ真正面から評価を受けることを避けてるように見える。だから傪も何も言わなかったんじゃないのか。

もしただの不運で虎になってしまって、実力があるのに不遇な扱いを受けていると思える詩の出来なら「いやこれ俺が取り次いで絶対出版させるよ!これヤバいよ!見つかってないのが不幸なだけで君は今からでも詩人になれる!」くらいの励ましをしても良かった。

虎になる不思議を経験したのだから、人に戻る不思議だって信じて良かった。

でもそうじゃなかったし、そうじゃないという決定的な壁が李徴にも傪にも見えていたんだろう。

虎になっても人の性質は変わらねえ

山月記って自尊心とか羞恥心って自分の身を滅ぼすだけだよね、みたいな教訓に落ち着くことが多いと思います。

なぜ虎になった?なぜ虎だった?と問われれば、「臆病な自尊心」とか「尊大な羞恥心」とかってワードを引き合いに出し、詩作に執着する上で人としての心を失った様を指して、象徴としての虎、と答えるのが普通ではないでしょうか。

内面の傲慢と臆病によって人生が崩壊した李徴のストーリーからはそういった教訓を得るのが一番それらしい気がします。

ただ個人的に思うのは、虎になっても結局人の性質って変わらねえってところが山月記のもっとも遣り切れない、哀れなポイントで、凹むところだなあと思うのです。

それが吉と出るか凶と出るかは、完全に運だよね、という。

李徴は傪一行に自分の詩を書きとらせて、自分のこういうところがダメだったんだよなあとは言いつつあんまり変わった様子はなくて、でも凹んでるから厳しくも言えなくて、最後に残してきた妻子のお世話を頼みます。

本当は、ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身をすのだ。

これだって、どうなんだろうと思う。

俺ってこういうところダメなんだよな、分かってるよ、狂ってるんだよ、人でなし×自尊心=虎ってことだろ?って自嘲的に言っておきながら、そういう自分を諦めて、満足していると思わないでしょうか。

自分はプライド高すぎたから詩で成功できなかったし、こんな自己中だから虎になんてなるんだよな、って言うけど、詩で成功できなかった理由探しをしているように見える。

ついでに言えば、虎に成り下がったおかげで詩作で成功するという道を諦めなければならなくなったことに安心すらしてんじゃないの?って思います。

虎にならなっちゃ無理だよな、時代が味方すればまだチャンスがあったかもだけど、虎になっちゃったからな、って思えますもんね。

李徴がただ哀れだという話

プライドや羞恥心が足を引っ張ることがあるのは誰でも知ってると思います。寓話めいた作り話にわざわざ込めるような教訓じゃないと思う。

それどころか、それは結果論であって、プライドや傲慢さ、過剰なまでの自分への自信がないとそれこそ詩の道をはじめ芸術の道って成り立たないんじゃないのかとすら思う。

謙虚に仲間から学んで素直に師を仰いで自分なんてまだまだ……って言ってる人よりは、多少傲慢でも自分にしか書けないものがあるんだよって人の作品を読みたいですね僕は。

だから、生まれ持った性質が悪かったから失敗したというより、単純に李徴が哀れな男だったんだな、という感想です。せっかくのキャリアをなげうって挑戦したのだから成功したら良かったですよね。

 

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