【とある科学の超電磁砲】「パーソナルリアリティ 自分だけの現実」と努力の手触り覚書【佐天涙子推し】

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アニメ『とある科学の超電磁砲』を見た。というかコツコツ見ている途中。アニメも途中だし、原作読んでないし、まだまだ浅い知識ではあるけれど、作中で頻出する「パーソナルリアリティ」という概念について、面白いのでブログに残しておく。

好きなキャラクターは「佐天涙子」。白井黒子も好き。「ジャッジメントですの」ってセリフがとても好き。と思ったらこんな動画があった。みんな好きなんだな。

佐天涙子の話に戻る。

佐天涙子は白井黒子みたいな能力者じゃない、というか無能力者。だけど人としてとても良いんだよな。

佐天涙子はパーソナルリアリティ(自分だけの現実)が心で分かっていないから、科学技術(超能力)開発を目的とし、人口230万、実に8割を学生が占めているという特殊な区画である学園都市の中にいながら、能力が使えない。

能力者に憧れて、学園都市で過ごすことを決めた佐天涙子はレベルゼロ。つまり能力は持っていないと判断される無能力者。この存在は珍しくないらしい。一方レベル5に分類される超能力者は学園都市230万人の頂点と呼ばれ、たった7人しかない。

超能力が使えないのは普通。佐天涙子は劣等生ではあるものの、マジョリティに属している。つまりただの平凡な人間の一人。

僕らが暮らす現実におけるいわゆる「影響力を持つ人間」と似てるかもしれない。ほとんどの人はSNSのフォロワーなんて多くて数百だと思うし、何か発言したからといってトレンドに上がることもない。

影響力を持たない人間は現実を変える力がない。超能力が使えない。

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パーソナルリアリティ(自分だけの現実)

パーソナルリアリティを理解することは能力を使う上で必須。

劣等生にはパーソナルリアリティの学習を促される。座学でこれを説かれる佐天涙子はなかなか集中できない。雲をつかむような話。理屈は分かっているのかもしれないけど、それから先に壁がある。

そういう姿を見ていると、そのパーソナルリアリティってのを勉強すれば能力を使えるのだから、真面目に勉強すれば良いのにと素朴に思う。どうして、仮にも超能力というものが存在する世界で、それを発現する努力を怠るんだろうと思う。

でも、例えば人生変えたいとか、影響力を持ちたいと思ってたとして、こうすればTwitterのフォロワーが増えるとか、ブログ記事が読まれるとか、youtubeの登録者数が爆増する、みたいな話を聞いても、ほとんどの人は実践しないか、しても結果が出ないのと同じような感じかもしれない。

結局のところ本気じゃないというか、心のどこかで「持ってる人」ってのは、「もともと持ってる」と思ってるところがあって、「あーあ、なんで私は持ってない側の人間なんだろうなあ」とか思ってしまう。

それは超分かる。僕もブログ記事、できれば毎日書きたいと思ってるけど、できればとか言ってる時点で毎日書くつもりなんて本当はなくて、自分なりの努力で、自分なりの意志で、そこそこ結果が出れば良いと思ってる。でも月に何十万PVとかはじき出してる人を見ると、やっぱり漠然と、いいなあー、って思ってしまう。

タイトルの超電磁砲(レールガン)ってのは学園都市に7人しかいないと言われるレベル5、つまり数少ない超能力者の御坂美琴のこと(異名?能力名)なんだけど、この御坂美琴とか、白井黒子って言うのはレベルの高い能力者で、ひょんなことから彼女たちと佐天涙子はお知り合いになり、その後仲間として学園都市生活を送るわけだけど、彼女たちの努力の部分というのはアニメ一期の段階ではほとんど描かれない。

しかし御坂美琴は相当の努力をしてレベル5になったと言っているシーンがあって、ということは、努力次第で御坂美琴みたいなレベル5になるのは難しいにしても、小さくても何らかの能力を使うくらいのことはできるようになる、ということになる。

しかもその努力ってのは、例えば神通力を得ようとして森に引きこもるとか、経を唱え続けるとかそういう雲をつかむような話ではなくて、ある程度体系的な方法論が確立されているタイプのものと見受けられる。なら頑張れば良いじゃんって思うのだけど、同じくらい、頑張れない気持ちも分かる。

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レベルアッパー事件を経て、努力の仕方を知る佐天涙子

レベルアッパーなるものが存在するという都市伝説があって、それを使えば誰でも能力のレベルを上げることができるというものらしい。

佐天涙子はこのレベルアッパーを手に入れ、使ってみる。それは音楽、というか一種の音波なのかな?であり、直接脳に影響を与える類のものだった。それでごく小さいながら風を操る能力を発現するのだけど、レベルアッパーを使った者が次々に気を失うなど事件に発展したことから、結果的にこれを使用したことは佐天涙子の反省となった。

後日、レベルアッパーを使用した者たちに対する夏休みの補習のような機会があって、対象者の中には、これは罰則のようなものなのだろうと考え腐る者もいたけれど、講師の一人にその考えを否定される。

体力づくりのランニングではいわゆるしごきのようなものを受ける。限界になったら挙手するシステムだが、そこからもう一周、もう一周と追加される。止める者は止める。止めないものは止めず、走り続ける。

意識の低い女の子の友達と佐天涙子は一緒にいるけれど、佐天涙子はそれなりに頑張る。限界だと思ったところからあと少し頑張る、ということが意外にできることを知る。

努力というものの輪郭が少しつかめたような気がしたのかもしれない。この講習で能力のレベルが上がることは無かったけれど、頑張ろうって思った、という回があって、佐天涙子が「頑張ろう」って言うシーンが好き。

この回では例えば、「コンフォートゾーン」ってやつの話をしているのかもしれないと思った。

コンフォートゾーンを抜け出す

コンフォートゾーンって何となく聞いたことがあるな程度の単語だから詳しくは知らないんだけど、言葉から察するに、自分が快適な領域ってことだろう。

だから自己啓発とかの分野で使われるときは「コンフォートゾーンを抜け出す」のように使われるのだろう。

自分の限界を超える、とかっていうといかにも暑苦しいけれど、この自分の限界って、日々けっこう簡単に訪れる。

例えば僕がこうしてブログを書いているわけだけど、この記事を一本書ききるかどうか、今の段階で悩んでる。今日も今日とて4時起きで、昼寝はしているもののいつも10時には完全に眠くなって寝る僕ですが、これを書いてる今は21時43分。もうそろそろ今日は眠いし、ここで一旦保存して、公開はまた明日、一度読み直してからでいいかなって思うのが毎度のこと。

そうしてたった一つ記事を公開するのに二日とか、三日とかかかって、非常にテンポが悪い。

これが僕の限界か?と言われれば、限界じゃないけど、眠いときに文章なんて書いても良い文章になんてならないし、ゆっくり寝て、見直して公開した方がっていうようなことばかり頭の中で饒舌になって、ここらへんで、が出てくる。

ちょっとくらい無理しろよって話じゃないけど、それにしても「ここらへんにしよう」と思うラインが僕は低すぎるって自覚があって、このラインは引き上げたいって思っていたから、佐天涙子の「頑張ろう」に同調する形で、僕もこの記事は書き上げて、公開してから寝ようと思う。

人によっては、当たり前のように一つ記事を書き上げたらもう明日の記事を書き始めて寝たり、本を読んでから寝たり、僕よりはるかに高いレベルの「ここらへんでやめよう」を持ってるんだろう。

この「当たり前にやる」ってラインの違いが、無能力者と、わずかでも能力を発揮できる人の差なんだということを「とある科学の超電磁砲」を見ながら、何度となく考えさせられた。

努力の手触り

人によっては、ブログを書くことがまず「異能力」に見えたりするのかもしれないな、とは思う。

僕は非常に怠け者で、限りなく無能力者で、それは例えば数字に現れたりするのだけど、何か書くことに関して、少なくともとりあえず書くだけであれば、多少は優れているという自覚がある。

一応二十歳を越える頃くらいから文章を書くことで生きてきたし、なんだかんだブログも書き続けてるし、小説も書く。少なくとも書くことはできる。

これはこれで僕だけの現実である。書くことに億劫さは無く、とりあえず書くことならできる、と自然に思っているのは、僕のパーソナルリアリティってやつだと思う。

誰もがきっとパーソナルリアリティを持っていて、自分の中で、「そんなの当たり前にできるよ」って思う部分が、能力の入り口なんだろう。

だけど、「とりあえず書くことはできる」から先に行けないのは僕が努力をしていないからで、その努力ってのは方法論というよりはむしろ精神論なんだろう。

限界と思ったところからもうちょっとがどれだけできるか。

そして、限界と思ったところからもうちょっと、が当たり前になっていけば、僕のパーソナルリアリティは少し広がって、そもそも「限界だと思うライン」が少しレベルの高い能力者の方へと動いていく。

こういうことの繰り返しによって、人は人から見て超能力者と思えるようなこともできるようになっていくのかな、という、けっこう当たり障りのない、だけど努力というものの手触りが分かりそうな気になった。

さて『とある科学の超電磁砲』続き見よう。

 

 

 

 

 

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