視野が狭いと思われるのが怖いからって生身の感情を捨てるのか

ここではないどこかへ願望と、人生2週目強くてニューゲーム感覚

を書きながら「今は視野を広げるより、自分の狭い視野で物事を考えること」にこそ力を注ぐべきなんじゃないかなと考えました。

それは単純に、「視野を広げる作業」より、「自分の狭い視野で物事を考える作業」の方が大変だから。

この場合は大変な方を意識してやった方が良いのではないかなと漠然と考えました。

「いやいや、視野を広げるって簡単じゃないでしょ、視野狭い人いっぱいいるじゃん」って声もあるかもしれない。

でも僕が何となく大変だって思ってるのはもっと感覚的な話で、「視野が広がった!」と感じる機会を得ることと、「自分の視野が狭いと認め、それから物事を考えること」を比べれば、精神的に苦痛が大きいのは後者だから、意識的にそれをした方が良いんじゃないかってこと。

だって僕らちょっと海外に行ったり、都会やら気になるところに行って色々な人に会うだけで「また一つ視野が広がったな。賢くなっちゃったな」ってつい思っちゃいませんか。

別に部屋から一歩も動かなくたって、有名ブログを徘徊したり、海外サイトをちょっとのぞくだけで人より広い視野で物事考えてる気になれちゃう。

そういう満足を手に入れるのがアホみたいに簡単になった時代だからこそ、自分の視野は今これくらいでって冷静に考えて、この範囲でしか物事を考えられないけど、これをどうにかこうにかして頑張ろうって考える方が辛いと思う。

で、別に辛いからこそ実の入りが大きいと言っているのではなく、単純にその方が良い気がするってのと、無暗に自分の視野を広げてそれを頼みにしてしまうと、結局何もできなくなるんじゃないかなって思うのです。

これはまだ予感の域を出ないんだけど、この辺りをもうちょっと考えてみようと思います。

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視野は限られてるのが当たり前なんじゃないか

んーと、多分僕が感じてるのは、僕ら頑張っても言うほど視野広くならないんじゃないかってこと。

だって肉体で考えても、つまり実際の僕らに付いてる目を考えても、「視野」って限られてますよね。視野を広く持とうと意識しても、実際の視野は限られてるから、そう意識すれば自ずとキョロキョロするしかなくなる。

だから僕らの視野はここからここまでっていう限界が絶対にあると思うのです。肉体的にも、精神的?知能的にも。

例えば、海外で暮らしたことがある人はそうでない人より視野が広くて然るべき、かもしれない。その人は世界中を旅したことがあり、様々な経験をしている。

普通に考えたら「さぞ視野がお広いんでしょうね」と期待されると思うけど、実際その人は本当に視野が広いんだろうか。

僕は、そういう経験や過去があるというだけで、それだけでは必ずしも視野が広がったことにはならないと思う。

いや色々な経験して、色んな人と出会って、色んな文化に触れたんだからきっとお前よりは広いよ視野って言われるかもしれないけど、そこが罠だと思うんだよな。

だってさっきも言ったけど、僕らが一度に見られる視野ってのはどうしても限られてるから。今現在、真正面に自然に映る景色以外の情報は、「予測」するしかないから。

「ただ知ってること」と「リアルタイムに感知すること」は違う

何が言いたいかって言うと、「ただ知ってること」と「リアルタイムに感知すること」は違うってこと。そして僕らは、「ただ知っている」だけで視野が広がったと錯覚してしまうということ。

一度振り返って自分のぐるりを視野に入れたからと言って、360度の視野を手に入れられるワケじゃない。

正面に向き直ったとき、背後で起こっていることが分かるなんてことはない。それは「予測」するしかなく、予測の域を出ない以上、経験にそれほどの意味はない。

その意味はないってのは例えば実際に見るか、ネットでよく調べて情報として知るかの違いはそれほどない、みたいなこと。

例えば、「○○って国では正月にウサギを食う」みたいなこと、別に実際に見ようが、ネットの情報で知ろうがあまり変わらないですよね。そんなこと旅帰りの友達に聞いても、「知ってるけど…」くらいのリアクションになりますよね。ちょっと気を遣ったとしても、「おーその話本当だったんだ!」って驚いて見せるくらいのことにしかならない。

このとき、知識や過去の経験をさして視野の広さを計ろうとすると、心情的には認めたくないけど、両者の知識は同じなので視野も同じということになりはしないでしょうか。この釈然としなさ。だから、視野ってのは単純に「色々広い範囲のことを知ってる」ってだけじゃないと思う。

視野って言うのは、あくまでリアルタイムに感知できる、自分に関心が持てることの範囲だと思うのです。

視野=ひりひりした肌感覚のある情報を受け取れる範囲

リアルタイムに感知できることって言うのは、本当に「今自分が肌感覚で認知できる、ホヤホヤの情報を得て、感じられること」だと思います。

だから海外のトリビアみたいなことをいくら知っててもそれは知識でしかないけど、例え距離が離れていても、その情報がリアルタイムで、肌にひしひし感じられるものであれば、それは自分の視野に入ってるということになるんじゃないか。

例えば、「オランダに住んでたときのお隣のおじいちゃんが亡くなった」みたいなニュースを現地の人から受け取って、現地にただよう寂しい空気とかを生々しく感じられるなら、例え今は日本にいたとしてもオランダのその地域の視野でモノを考えてることになるような気がする。

昔イタリアに住んでいたときに働いていたレストランのオーナーが退職したというニュースを聞いて、レストランのその後が心から心配になるのであれば、その人にとってそのイタリアのニュースは身近な「自分事」であって、あくまで視野に入ってる。

微妙な話でややこしく感じるかもしれないけど、過去の経験ってただの過去になってしまったら情報でしかなく、一度見たという記憶でしかないんじゃないかって思うのです。

僕は今までに色々なバイトしてきました。色んなジャンルの仕事した。でも一つとして今どうなってるかが分かる場所はないし、誰が辞めたとかそういう話を聞いても何とも思わない。

当時であれば、○○さんが風邪引いた!ってだけで「うわー今日じゃあめっちゃ大変じゃん!」みたいに思えたけど、既に自分とは関係ない場所になっているから、知識としてそういう環境は理解できても、とうに僕の視野には入っていないので、リアルタイムな感情を基にモノを考えることができない。

意識の問題もあるけど、視野の広さはみんなそれほど変わらない

リアルタイムに感知できる情報の範囲が自分の視野だとする。

だとしたら、世界中を旅していようが、一つのところに留まろうが、たいして違いはないんじゃないかって思います。

だって視野には限界がある。自分が自分事としてとらえられることには限界がある。

オランダのおじいちゃんの訃報を聞いて悲しむこと、イタリアのオーナーが変わってお疲れ様って思うこと。それと、自分の故郷で世話になった誰かの訃報を聞くことや、近所の誰々さんの息子が大学受験に合格したって聞くことにどれだけの差があるか。

自分の視野というのは肉体的にも精神的にも限られてるし、見聞きするならまだしも、自分事として考える素材になり得る事柄は限られている。その量の違いに、多少の意識の差はあれど、それほどの差はないと僕は思う。

どうしたって体は一つなのだから、自分事として扱える事柄には限度があるんじゃないか。

強いて言えばそのキャパシティの違いが視野の広さの違いだってことになるし、意識的に色々なところにセンサーを張って置こうと思うかどうかで視野の広がりには違いが生まれると思うけど、やっぱり僕ら生身の人間だし、天と地ほどの差は出ないと思う。

感情を伴わない視野を広げると、どれも自分事にならないという空虚

自分が今リアルタイムで認知できる事柄には限度がある。それは誰でも同じなんだけど、今は知識だけなら簡単に得られるから、張りぼてみたいに実際より大きく視野をこさえることだって簡単です。

しかし表面だけの、感情を伴わない膨大な知識の上に立って物事を見れば、本当に今の自分が感情を動かしてモノを考えられる範囲ってどこからどこまでだっけ?っていう感じになるんじゃないかってことが、僕の心配事です。

イメージで言えば、台風のライブ中継をしているか、宇宙から人工衛星で見てるかの違いみたいな。

どちらも大きな台風がやってきていることは分かってるけど、実際に雨風に当たってやっべーこれ立ってらんないって自分事になってるか、無風どころか無重力の視野から眺めるのとでは全然違う。グローバル社会の無暗に広い視野って、人工衛星的な視野だと思うのです。

この視野が当たり前に自分のものだと思ってしまうと、ちょっと感情が動いても、「そんなの分かり切ってるだろ」みたいなクールな声がぽわわんと浮かんできて、生身の自分の感情が捕らえた情報を信じられなくなる。

するとざっくり社会のトレンドとか最先端にしか反応できなくなる。少なくとも、これって世間ではどれくらい常識なんだろうとか感情を動かすより先に考えるようになって、ああもう結構人口に膾炙してるのねと思った途端に冷静な態度になって、あたかも、もともと知ってたみたいな顔をするようになる。そしていつの間にか自分がなくなってる。

こう考えると、子どもの頃は違ったよなって思う。

当時クラスで流行った話が、実はネット上では既に数年前に流行ったネタだったりすることはある。もっと普遍的なことで言えば、「性的な知識」について友達と盛り上がったりするけど、大人から見れば「何をいまさら」なことですよね。

でも情報が微妙に遅くたって、「何をいまさら」みたいな常識だって、子ども時代の視野と世界観では最大の関心事で、精一杯興味のあることだった。それが、「知ってるのが当たり前」と気付くだけで全然楽しめなくなることがある。

何が正しいとかじゃなくて、視野の狭さを受け入れてこそ心おきなく楽しめる領域っていっぱいあるんじゃないかってこと。無暗に広い視野を拒絶することもたまには必要だよなと。

だから、冷静に自分の視野に入っていることの範囲を見極めて、その中で最大に関心を寄せて、感情を動かせる事柄は何だろう?って考えることには意味があるし、簡単に知識や知見を広げられる時代だからこそ、意識的にやらなきゃいけないんじゃないかなと思う。

このくらい考えてもまだ感覚的な話ではあるけど。

視野が狭いと思われるのが怖いからって生身の感情を捨てるのか(完)

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