だからえんぴつは大人だ

発想と行動を記録する

「両価性を認める」というのがぴったりな言葉なのか分からないけれど、「二つ以上の矛盾する価値をどちらも価値として認めることがある」ということを受け入れるのに随分時間がかかりました。

例えば今より少し若い頃、「好き嫌いはなく、わりかし何でもおいしく食べられる」と半ば味覚音痴を自負するかのように言っておきながら、ラーメンの話になるとあそこの店はいまいちだが、一方あの店はスープが何系の出汁で麺がどうであるから絶品であるというようなことを言う男性が多いことに辟易していました。

今は、時と場合によって愛情がこもった素朴なお料理を素直に楽しむ舌と、極めた逸品を分析的に味わう舌があり、それら両方の価値観を同時に持ち、ときにより使い分けることは可能なのだと考えられるようになりました。

むしろこれを使い分けられないようでは社会ではあまり上手に生きていけないことを実感することが多いようだと思うようになりました。

 

「酒を飲むときにはあまり食事をとらない」と居酒屋で語っていた知り合いが、別の居酒屋では「出されたもんは食わなきゃ気がすまない」とお腹いっぱいの女性が持てあましているおにぎりを頬張っていたとき、こいつの軸はどこにあるんだと思ったものですが、通な酒飲みの自分に酔いたいときもあれば、食べものを粗末にできない自分に酔いたいこともあるのだということを受け入れたのもわりと最近の話です。

僕らはあらゆる場面で矛盾を強いられる生き方をしており、その度毎にあれ前おれが言ってたことと違くないか?と自問自答していては、とても器用に生きることはできない。

矛盾を飲み込むとか、清濁併せのむとか、白黒つけないみたいな、人のもしくは社会の矛盾を受け入れながら流れるように生きるという態度がある程度必要なようです。

 

如才ない社会性を身に付けた人の方が好ましく感じるというわけではないし、二枚舌を身に付ければ良いというわけではなく、使いどころが肝心だろうと思う。

ときと場合によってころころと立場や態度を替えた方が良い場面と、一貫した軸を持った人間であった方が好ましい場面があって、それすらそのとき時間を共にしている相手に応じて使い分けられるようになれば、ある程度社会的に信頼に足る人間になれる、のかもしれない。

信用できなくなればなるほど社会的には認められることが多くなり、信頼されることが多くなるということはどういうことだろうかと、やはりひと昔前の僕は神経質に物事を考え、人の在り方に公式を求めようとしてはファジーな部分を毛嫌いしておりました。

この性質は僕の美徳であると自負しているところでもありますが、一方で融通が利かず要領の悪い僕の何とかしたいところでもありました。

ただ、こうしてブログをコツコツと書いていたりすると、発言というか思考が残ってしまうので、極々自然にあのときの自分と今の自分でどこに価値を置くかが変わっているなんてことに自分で気付いたりすることも多いものです。

 

自分の中の矛盾に気づく機会は多く、しかしどちらも嘘というわけではなく、つまり両方に価値を置いているという状況が、生きて考えるうちにどんどん増えていくことに気付く。

自覚的になればなかなかしんどいことではありますが、もしかしたらこうやってだんだん大人になっていくのかもしれません。

しかし、だからこそ「軸」がより必要になっていくのだと思います。ときと場合によって「面」はころころと変わるかもしれないけれど、芯はしっかり持つ。

結局一番大事にしているものは何なのさ、譲れないところは何なのさ、何に情熱を注ぎたいと思っていて、何を美しいと思うのさ。

そういう部分を少しずつ強固にしていくのも、大人として必要な態度だと思う。

まとめると、芯となる軸を持って、面を使い分けられるようになれば良いということ。

これはえんぴつだ。だからえんぴつは大人だ。

 

だからえんぴつは大人だ(完)

 

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