小説を読む意味/なぜ僕たちには物語(フィクション)が必要なのか

発想と行動を記録する

一つの例外もなく、とは言えないけれど、僕らが普段触れる小説や映画の主人公はいつも困っている。

とにかく困る、困る、困る。

困ることの連続、参ったなー勘弁してくれよってことの連続。厄介なことに巻き込まれてしまったり、ときには自分から首を突っ込んだりしている。

困難が大きければ大きいほど、共感できればできるほど僕らはその物語に引き込まれ、感情移入し、見てるこちらを楽しませてくれる。

フィクションだから、実際にはありえないから、無責任に好奇心全開で他人の困り事を楽しめる。

これだけで物語(フィクション)の必要性は語りつくしたも同然かもしれないけれど、楽しむだけじゃなくて、もっと切実な意味で物語が僕らの人生に必要だと僕が感じる理由を書いてみたい。

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現実では、「物語的なこと」、つまり「困ってしまいそうなこと」を避ける

フィクションは軽んじられることも多いのではないかと思います。作り話ってつまり嘘でしょう?と、そんなものに付き合ってられません、現実にしか興味はないのです、と言う方もいると思う。

また、「物語」に対して拒絶反応を示さない人でも、それどころか「物語」を好ましく思っている人でさえ、現実社会において「物語的なこと」を嫌う傾向にはあるのではないかとも思います。

「物語的なこと」というのはつまり「困ってしまいそうなこと」です。

フィクションの世界では面白くなる展開(主人公がより大きな困難に巻き込まれる展開)が、現実の世界では全然望まれない。

物語の方から歩み寄ってきても、真顔で「今そういうのいいから」って言われてとりつく島もない。

叶わない恋ならそこそこ頑張って諦める。

途方もない夢はいつしか語らなくなる。

おかしな人を見かけたら近づかないようにする。

殺したいほど憎い人がいても絶対殺さない。

僕らの人生では、何事も起らないように何事も起らないように細心の注意を払って物語的なものが避けられる。

少しでも困ってしまいそうな予感がすれば、大人な態度でノーと言う。平穏無事な毎日を送ることだけに集中して、いつも「無難」な選択をする。

 

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「変化」というのは否応なしに「物語的なこと」なんだ

例えば、あなたの身近な人が急に訳もなく、学校辞めるとか、仕事辞めるとか言い出したら、あなたは反射的に心配すると思う。

いじめられてるとかブラック企業だとかだったら賛成するかもしれないけど、「そのままそこにいれば安泰なのにどうして?」って気持ちになる。「愚かな判断だ」と思うかもしれません。

落ち着いて考えて?卒業まであと二か月じゃない、定年まであと3年でしょ?って言うかもしれない。

辞めたあとはどうするの?ないけどとりあえず旅に?

そういうのは卒業のあとでも、退職後でも、落ち着いてからゆっくりやったらどう?

この社会では、「変化」というのは否応なしに「物語的なこと」なんだなと思います。つまり余計なこと、困ってしまうこと。

ハッピーエンドが保証されている変化でもない限り、人はその変化に踏み出す勇気を持てない。

だから日常では、転職だって簡単には決断できないし、住む場所を変えることだって多大な準備がいる。それどころか知らない人に話しかけることも、新しい美容室に行くことも、怖くてたまらなかったりする。

何で困るかは絶対的ではないけれど、困ることそのものは普遍的

「困ってしまうようなこと」と言っても色々あります。

「困ってしまうようなこと」って絶対的なものではなくて、何が困ってしまうことで何が物語的なことなのか、つまり語るに足ることなのかにはそれぞれ人によって違いがある。

飛行機の操縦を急に任されてやっと困る人もいれば、来週は身体測定だってだけで世界の終わりみたいに困る人もいる。能力の問題じゃなくて、どんなシナリオの上で生きてるかの問題。

何が言いたいかと言うと、僕らは困らずに暮らすなんて絶対にできないってことです。

何事もない平凡な毎日が幸せなのは分かるけど、大なり小なり平穏じゃ済まされない事態には襲われる。

どれだけ物語的なことを避けて通っても、変化を嫌っても、世の中は変わるし、気分も変わる。まったく予期しない角度から強制的に変えられてしまうこともある。

何で困るかは絶対的ではないけれど、困ることそのものは普遍的すぎるほど普遍的な事態です。

つまり人生は望むと望まないとに関わらず物語的であり、世に溢れる物語は人生の一部分であると言えるのではないかと思うのです。

物語をストックすることで、どうなるか分からない未来に根拠のない自信が付く

どうして僕たちには物語(フィクション)が必要なのか。

それは、自分の物語的な人生を肯定するきっかけがそこに溢れているから、だと僕は思う。

物語のたいていの主人公は、普段僕らでは選択しないようなことを簡単に選択するし、僕らが一生巻き込まれることはないだろうことに巻き込まれます。

だけど僕らはときに強く変化を望むことがあるし、否応なく変化に巻き込まれることがある。

大したことではないかもしれないけれど、今の自分の日常を脅かす予感がするような出来事は割と頻繁にあるでしょう。

そんなとき、どれだけの「物語」を知っているかで気持ちに大きな差が出ると僕は思う。

図書館や書店に並ぶ本の中の主人公は、とにかくいつも困っている。最悪の事態に巻き込まれていたり、最悪の気分を味わわされていて、弱者的な、惨めな思いをしていることも珍しくない。

これだけの本があって、順風満帆な生活が記されている本はほとんどゼロと言って良いほど皆無。

物語を知れば知るほど、未来はなんとでもなることを知ります。ハッピーエンドに繋がるシナリオは必ず用意されているし、それがいかにもリアリティがないのであれば、とりあえず納得できるシナリオを手繰り寄せることもできる。

先が見えないのは怖いし、日常と異なる選択をするのも怖い。このままスーッと続いていくだろう、見通しの良い道から外れるのは怖い。

でも知っているシナリオのストックがあればあるほど、「最悪」な結果になる主人公は意外に少ないと知っていればいるほど、まあ大丈夫か、その都度考えれば良いか、なるようになるかって思える。

未来に対する勇気が出るとまでは言わない、でも少し楽天的になれる。どうなるか分からない未来に根拠のない自信が付く。それは希望だと思う。

結末も展開も知れ切った安定した人生は、お話しにならない

僕らが本質的に安定を好むのは当然だし、安心したいという欲求があるのも当たり前です。

でも変化を余技なくされるようなこともあろうし、何となく、もしくは強烈に変化を求めてしまうこともあると思う。

感覚的に今歩いている道が気に入らなくなるときもあるのではないか。ただでさえ変化が激しい時代だと言われているのですからなおさらです。

そんな人生に立ち向かうときに、世に溢れる物語は背中を押してくれます。

それって、今まで読んできた全ての物語(フィクション)が、平凡以下でもそれなりに物語的な僕の人生の一部分になっているということだと思うのです。

悲劇的なことも、喜劇的なことも、相当意識して、注意深く選択しない限り起らない。

困ることはたくさんあるけど、それをどう捉えるかも、それを結末にするか伏線にするかも自分次第で、未来は分からないなりにかなりの範囲で展開を操ることはできる。

仮に、本当にめちゃくちゃ困っても小説の棚に並ぶだけ。

展開も結末も見通しが効いてしまう、安定した、順風満帆な人生が仮にあるとしたら、それは変化の無いストーリーということで、つまり困ったことが何もないということで、語られない、お話しにならないっていうだけ。

それを知ってるだけでけっこう人生は楽しくなると僕は思うから、僕らの人生に物語(フィクション)は必要なんだと思う。

 

小説を読む意味/なぜ僕たちには物語(フィクション)が必要なのか(完)

コメント

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