超絶時間がないので今後書きそうなこと、今頭の中でくすぶっていることのメモを記録しておこうとおもいます。
頭に浮かび行くよしなしごとをそこはかとなく書き連ねます。
まず、時間がないとか言っておいてそれでも更新をするのはなぜかというと、読者さんが待っているからとか驕った理由からではなく、自分に課したルール(月・水・金には更新しよう)を破ったらどこまでも手を抜くようになる気がするからです。
そのルートはこうです。
仮にもし、忙しいからと言って今日の更新を諦めるとしますね。
僕は必ず、頭の中でこう言い訳をします。
「クオリティの低いものを適当に書くより、ちゃんと考えがまとまって、人にきちんと見せられるものを書いた方が誠実だ」
だから時間がないときには無理をせず更新しないことが正義だ、今日更新を諦めたのは正しい判断だった、そうだよそうだよ、更新をしないという判断も大切だよと考えるようになります。
しかし、残念ながら時間があったとしても人に見せて恥ずかしくないクオリティの高いものなどそうそう書けません。正直、そもそもクオリティの高いものって何なのか分かってません。
自分で自分を正当化するためだけに用意した言葉のせいで、「クオリティの高いものを書かなければならない」という思い込みに縛られるようになります(クオリティの高いものが何か分かってないのに)。そうじゃないと「金曜さぼっちゃった」示しがつかないから。
今後クオリティの低いものを書いて公開してしまった時点で「クオリティの低いものを適当に書くより、ちゃんと考えがまとまって、人にきちんと見せられるものを書いた方が誠実だ」が嘘になってしまいますから、書くことがプレッシャーになります。
これが嘘になってしまうということは、更新を諦めたという事実は名実共にただの怠惰だったということになりますから、自分がちょっと嫌いになります。
それを避けるにはどうしたら良いかというと、「クオリティが高いものが書けるようになるまで書かない」という判断になります。
月水金は更新するというだけのルールが廃止され、クオリティの高い文章が書けるまで更新しないというルールになります(傍からみたらただ更新頻度が下がってるだけ)。
きちんと考えがまとまって、きちんと書いて、これは伝わると確信が持てた時点で更新しよう。
月水金は更新するなんて機械的なルールに縛られて適当にやるだけになったらいつまでも成長しないし、読んでくれる人に失礼だ。
そんな風にルールを無視するようになり、意識は高いわりに数をこなせないっていう人間ができあがります(傍からみたらただ更新頻度が下がってるだけ)。
それでもやっぱり自分は嫌いになりたくないので、たまには更新するでしょう。
そしてそれが認められなかったり、反応がなかったりしたら「ちゃんと読んでくれる人がいない」とか、「分かってもらえない」と言うように、他人に問題を見るようになります。
だって自分はちゃんとしてるんだから、僕はやることやってるし、しっかりとポリシーを持って運営しているのに結果が出ないなんてことないだろうと。自分だけはそのことを知っている。自分は頑張っている、自分が嫌いにならないように誠実に生きている。
それを自分だけは知っている(傍からみたらただ更新頻度が下がってるだけ)。
でも結果が出ない(更新頻度がただ下がってるだけだから)。
不定期更新にして、自分が自分の怠惰を認めたくないばかりに作り込んだ自己満の文章を見せて、それが認められない原因を他人に求める。
何が起こるかというと、自信喪失と「ブログとかくだんない」みたいな勝手な拡大解釈です。
そして他人のブログを読んでは、なんでこんなくだらないブログが人気あんだよとか考えるようになる。
怖いですね。
だから今日も書きます。
というかこの時点でけっこう書いたからもう今日はこれで良いかなと思うけど、冒頭に今後書きそうなこととか頭の中でくすぶってること書くって書いちゃったので申し訳程度に書いておきます(生きづらそうですね僕)。
これからのお仕事と創造社会
・仕事はトラブルを解決するためのものだったが、なんか最近はトラブルを生みだすことが仕事みたいになってないか(冷静に考えて、あってもなくても生きるには困らない仕事の方が多いよね)
・仕事を作るって、別に意識しなければ困らないトラブルをわざわざ可視化して、解決策を与えるようなことじゃないだろうか。(まちづくりもこんなところがある)
・トラブルは絶対的じゃない。人が欲望を持って観測した場所にトラブルは生じる。
・そう言えば最近「量子論」の入門書みたいなものを買ったのだけど、これと繋がる部分がありそう。
・欲望を持って観測した場所にトラブルが生じるの例→火星で起きる大噴火や火災が問題になるのは、「人間が住めそうになった段階で生じるトラブル」。そもそも住めない届かないという状況では、火星で何が起こっていても大したトラブルにはならない。
・トラブルをわざわざ作りだすということが今後の仕事だとしたら、それは例えば小説を書くことと似ている。物語はトラブルを創作することだから。
・つまり仕事は創作めく。
・創作めいた仕事はもはやゲームである。やらなくても良いことだが、楽しいからやることになる(だから楽しくない仕事は本当にしなくて良くなる。働きたくないなら働かないは今よりもっと当たり前になる)。
・極端な概念同士は似る
・今後どんどん現実はゲームめき、ゲームは現実めくだろう(今のゲームってすごい)
・ゲームがちゃんと楽しいゲームであるに足る要素は何かというと、ルールがあることである。(お、最初に書いた更新日ルールの話と繋がってきた)
・スポーツを考えれば分かりやすいけど、ゲームはルールがあるから成り立つ。
・これまでの仕事は資本主義的なルールの上で成り立っていた(結果がすべてとか?)けれど、これからの仕事は(ゲームめくというのが本当だとしたら)より人道的なモラルを基準にしたルールになる。
・なぜなら、仕事が遊びめくのだとしたら、一緒に遊びたいのは単純に「良いヤツ」だから。
・一緒に仕事をしたいのは優秀でやり手なビジネスマンよりも、一緒に遊んでて楽しい友達みたいな基準になる。
・子どもの頃のことを考えれば、仲の良い友達同士で毎日楽しく遊んでいた、それこそ色んな遊びが大きなプロジェクトだった。
・だけど、それでもケンカがないとか、能力が足りないとか、気に入らないと言ったコミュニケーション上のトラブルがないなんてことはなかった。
・つまりコミュニケーションとか人間関係について考えることは今後何をしてても重要。
・ただ、コミュニケーション能力というものが、現在の社会をうまく乗りこなすためといった漠然とした社会スキルとしてというよりは、夫婦間とか友達間との間に発揮される、もっとローカルな意味で問われるものになるのではないか(あいつとの付き合い方、のような)。
・それはつまり応用が利かないということ。「コミュニケーション能力が高い」の意味がよく分からなくなり、「ただ相性があるだけ」ということに気付く。
・ところでこれ箇条書きっていうのか。
・ややこしくなってきたし時間切れなのでここで終わります!
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