コミュニティを作ることは僕にとって「設定を共有すること」だと思う。

とっても説明が難しいけど思っていることを書きます。

僕が作りたいと思い描くコミュニティの話です。

その説明の何が難しいんだよと思われるかもしれない。

だけどごく最近、もうそれは昨日今日レベルの最近なんだけど、僕は自分が思い描いている「コミュニティ」が世間で言われる「コミュニティ」とは違うっぽいということに気付いた。

いや、全然違くないのかもしれないけれど、自分の言葉で書いておいた方が良いような気がしてきたので書いてみます。

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今までに書いたコミュニティ論

このブログは「コミュニティ論」をテーマの一つに据えていて、論というほどではないんだけど、いろいろ書いてきました。

気に入ってる記事、思い入れがある記事は以下のようなものがあります。

全然注目されない小さなコミュニティで誰も知らない冒険をしよう

どのコミュニティにも「個性的な人」や「変わった人」がいるワケ

ファンが集まるコミュニティ。信者が集まるコミュニティ。

ぷよぷよ式コミュニティ論

なぜ夫婦は離婚し、カップルは別れるのか。それはきっと文明が崩壊する理由と同じだ

自分の記事を見直すに、僕はあまり個人に意思があるとは思っていないようです。

それと、「個性」というものに対しても、僕はわりと懐疑的な傾向があります。

どんな人も、「クラスに一人はいるヤツ」に違いないと思ってます。

クラスにいなくたって、だいたいの人は学校に一人はいるヤツだと思うのです。

だけど身近にいる人を思い出すと、「あいつは変わってるんだよな」と思える人がいるのは確かです。「こんな人なかなかいない」と錯覚してしまうことがあるのは分かる。

個性は近づくか遠ざかるかの問題で、いつもありやなしやだと思う。

人は近づけば濃くなり、遠ざかれば薄くなるものでしょう。

ところが僕らはいつも唯一無二になりたいと思ってるふしがある。

ということは、自分の個性は何かと考えるより、近づくことが大事だと思うわけです。

ただ、近づくのが大事というけれど、僕はパーソナルスペースが広く、人と近づくのはどちらかというと苦手です。友達を作るのも、人に懐くのも苦手。

それでも人並みに人間関係を築けたのは、自分にフィットした場が少なからずあったからかなと思っています。

こういう考え方からしても、コミュニティとはなんだか人間味の無い、ただのシステムのようなものだと捉えているところが僕にはあります。ハマるところではハマる、という程度の。

コミュニティに付随する人間的な「繋がり」や「絆」を信頼できないところがある

少々冷めた見方なように見えるかもしれませんが、僕は自分のことを人間味の薄い人間だと思わないし、合理的で理性的な人間という訳でもないと思います。

コミュニティはシステムと捉えていても、その中で芽生える感情や気分というものは尊いものだと思っています。

僕は感情的で、人間的な温かみのある、ごく一般的な男性だと思います。猫好きです。

だけどどうも僕はコミュニティという言葉に付随する「人と人との人間的な繋がり」に対して信頼できないところがある。

ここのところが説明しにくいところなんだけど、コミュニティが持つ円のイメージがどうしても苦手で、僕はどうしても仲間意識とか、連帯とか、絆というものから遠ざかりたくなってしまう。

所属するのが苦手で、強制されない限りどこにも属さないで生きてきました(思い返せばわりと強制的なイベントが多かったのが幸いして人並みに人間関係が築けてるのだと思う。ありがたい)。

向上心も競争心も野心も乏しいのにフリーランスで生きているのも、就職活動して会社に属する気になれなかったからなんだよな、と思います。

この記事を書くに先立って、ツイッターで思ってることを何となく書いてみました。

この記事とツイートをご覧になっても分かる通り、まだうまく言語化はできません。

ただ、僕が思うコミュニティっていうのは、仲間意識とか絆で繋がる、一種の擬似家族のような質感のものではなく、「設定を共有している」という、なんだかドライな感覚なのです。

ただこの設定というのは、言い換えればストーリーとか世界観なのかもしれなくて、そういう言葉に言い換えると急に温かみを感じるし、温かみを求めていないということもないという複雑を僕は持っている。

そして、そこんとこ共有できてたらそれはもうかなり「仲間」だよねってことで、結局最近よく言われる「コミュニティ」となんら違うところはないのかもしれない。

まだまだ考えは宙ぶらりんではある。

だけどこの時点で僕のコミュニティに関する考えを一旦公開しておきたいと思います。

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