優越感なしでは人は幸せになれないのか/『鋼の錬金術師』が刺さる、何度も。

発想と行動を記録する

※201812/24 有益なコメントをいただきました。この記事で言いたいことは結局、「優越感なしでは人は幸せになれない」ということだろうか、それとも、「比較するから不幸を感じるのだから、優越感や劣等感を別のことに向けよう」ということを言いたいのだろうか。というご質問でした。

これを受けて、確かにタイトルに答えられておらず、着地点も曖昧なので、大幅に加筆修正することにしました。

とは言え無事に着地できるか分からないので結論を先に書くと、「優越感を感じたとしたら、その優れた点と感じられたことを他者のために使おうと考えた方が幸せなんじゃないか」ということです。

尚、加筆訂正に伴い「優越感には2種類ある」という話題をばっさり削除しました。その2種類というのは、例えば「他のみんなはそうでもないと言うけど、自分は世界一可愛いと思っている彼女がいること」と「自分はそんなに可愛いとは思っていないけど、友達みんなが可愛いと言う彼女がいること」の2種類。

つまり、主観100%で優越感を感じることと、他者の評価だけで優越感を感じることの2種類があって、どちらが幸せだろう?という話題です。

個人的に興味のある話なのですが、この記事にとっては混乱の種にしかならないと気付いたので削除しました。

――以下本編――

何を持っているかより、何を人より多く持っているかで幸せかどうかが決まるのではないか、と思うことがある。

「人が持っていないものを持っている」 「人より多くのものを持っている」 「人より優れている」 という優越感なしでは、多分多くの人は自分の持ち合わせているものに満足することがないのではないか。

そんなことが思い浮かんで、ああ確かに優越感というものはなくてはならないものだと自分自身に感じるとき、僕は『鋼の錬金術師』を読みます。※リンクは少年ガンガンの公式ページに飛びます。

ひるがえせば「自分は人より多くのものを持っていない」と感じ、つい不幸を感じてしまうとき、『鋼の錬金術師』の物語は僕にグサグサと突き刺さり、なんて自分は馬鹿だったんだと気付かせてくれる。

お前は頭が悪いから不幸せなんか感じるんだと怒られているような気分になる。

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鋼の錬金術師が得た真理

※以下『鋼の錬金術師』の内容についてネタバレがあります。

『鋼の錬金術師』の主人公であるエドワード・エルリックは物質的にも能力的にも非常に恵まれています。

なんせなんでもありの錬金術が使えますから、その気になれば石炭を黄金に作り替えることもできる。素材があれば何でも作ることができる。

IMG_0432石炭から金を作るエドワード   (鋼の錬金術師 第一巻 128Pより抜粋)

まだ子供と呼ばれる年齢ですが体術に秀でており、大抵の大人よりは強いです。

その上「国家錬金術師」という称号を持っているので、大抵の大人よりは普通にお金持ちで地位も高い。↓

IMG_0431   (同上 118pより抜粋)

地位・経済力・能力を持っている彼は、それでは人よりも幸せでしょうか。

つまり凡そ物質的な欲求は完全に満たされていて、地位や名誉と言った概念的、社会的な欲求も満たされているどんな価値観の上にも「勝ち組」と呼べるであろうエドワードは、誰よりも幸せなのでしょうか。

もしそうだとしたら彼と弟のアルフォンスは何を追い求めて旅に出ているというのでしょうか。

それは、彼らは過去の錬金術の失敗によって失ってしまった体(兄は片腕・片足、弟は全身)を取り戻す方法です。

そしてエドワードは結局最後に、弟の体を取り戻すために錬金術師としての能力を捨てます。

それは錬金術という便利な能力を捨てることであり、国家錬金術師という国家資格を捨てることであり、同時に地位も経済力も捨てることです。 それどころかそれは…

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こんなことを言われる程のことなのです。 (第二巻 左135、右136pより抜粋)

等価交換だ

物語の冒頭はこんなセリフではじまります。

痛みの伴わない教訓には意義がない 人は何かの犠牲なしに何も得る事などできないのだから

  錬金術の基本は等価交換だと言います。

一のものからは一のものしか作ることはできない。

何かを得ようとすれば、何かを犠牲にしなければならない。

彼らが犯した失敗とは、死んでしまった母を錬金術で蘇らせようとしたことです。

望みすぎた者は真理によって残酷な現実を突き付けられます。

思い上がった彼らが真理に与えられたのは、「体の消失」と「どうしても母を蘇らせることはできないという絶望」です。

せめて自分たちの体は取り戻そう、その方法を探そう、というのがこの物語の発端なのですね。

最終的にエドワードはあらゆるステータスや物質的な欲求を実現する術を捨て、代わりに弟の体を取り戻しました。

多くのモノを持っているから多くを手に入れられるのか

これは、弟がそれだけの価値に匹敵する存在だったから、ではありません。

そういうもの全部を失ってもまだ自分は持っているものがたくさんあって、仮にあらゆるものを失っても何一つ犠牲にしていないという真理に彼が辿り着き、真理に打ち勝つことができたからです。

自分には応援してくれる人は大勢いる、どんな苛酷な目に合っても誰一人自分達には諦めろとは言わなかった、そんな仲間や信頼できる大人たちに囲まれていた自分には「みんな」がいるのだ。

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IMG_0427   (第二十七巻 上・中128、下129pより引用)

もう少し穿った言い方をすると、はじめから何一つ持っていないただの人間である自分、与えられたり支えられたりしながら精一杯生きている自分が、何かを自分の力で得たと思い込んでいること自体がおこがましいということに気付いた、という感じでしょうか。

僕はそう思います。 そして無事体を取り戻した兄弟が辿り着いた新しい錬金術の法則は

10もらったら自分の1を上乗せして11にして次の人に渡す

という、それまでの等価交換の法則を無視するもので、自分以外の誰かに精一杯の自分を与えるという人生でした。

優越感は周りの人間に与えられる錯覚

さて、なにをこんなに『鋼の錬金術師』の話しをムキになってしているのかというと、彼らの成長の物語が今回の「優越感」というテーマに結びつくからです。

エドワードが持っていたものはたくさんあるけれど、それは言わば彼自身のアイデンティティにはまったく影響しない、つまり彼の世界観にはまったく影響しない持ち物でした。

象徴的なキャラクターとして、「強欲のグリード」という人も出てくるのですが、彼が死に際に辿り着いた答えも、欲しかったのは力や金や女ではなく、こいつらみたいな仲間だったん

だ、というものです。

FullSizeRender (25)  こいつら↑(第二十七巻 72pより抜粋)

自分が得たもの、自分が持っているもの、そして得ようとしているもの、それらは全て錯覚であって、即ちそれを持っていることで得られる優越感もまた錯覚です。

そうですよね。 優越感というのは、一人では絶対に得ることができない感情です。

自分の持っているものを認めてくれる人がいるだろうという確信(例え錯覚や思い込みでも構わない)が優越感を生みます。

つまり他人ありきの自分であって、優越感という個人的な感情も実は人に与えられるものなのです。

もともと自分が持っているものなんて何一つなく、得たものでもってアイデンティティが定められる訳でもなく、自分の価値はいつも自分以外のところにある。

僕が持つ優越感

少し観念的過ぎるでしょうか。

例えば僕には、親友と呼べる人間がいます。

物心つく頃からずっと一緒ですから、実に25年くらい?の付き合いです。

これからも長い付き合いになる友達はいるでしょうが、気の合う仲間で、かつ貴重な幼少期の時代の記憶が共通のものであると言える人間はもう二度と、絶対に現れません。

一億円を一年で稼ぐことはもしかしたら出来るかもしれませんが、子供の頃、同じ景色を見ていたと確信できる親友はどんなに望んでももう得られないのです。

まだまだあります、祖父母は世界一僕に甘い夫婦ですし(祖父は亡くなりました)、僕にはチャレンジングな母がおり、賢い姉がおり(イケメンの旦那と元気な姪っ子二人も)、面白かったり綺麗だったりする先輩がいます。

そしてなぜか可愛い彼女も僕にはついています。→妻になりました。

え、リア充じゃん。自分で書いてて驚いた。

僕は既に何億積んでも得られない人間関係を持っています。

僕はお金もありませんし人に自慢できる物は何も持ち合わせていません。

だけど、これだけの優越感(優れた人間関係)を僕は持っています。

じゃあ、僕がこれから得るべきものってなんだろう。

他人のための優越

僕は錬金術も使えなければ何の地位も与えられていないただの生き物なのですが、周りにいる人達のおかげでやたら幸せです。

だから与えられるだけではなく、どうにかして何かを与えることができる人間にならなければならなければいけません。

僕も誰かにとっては人間関係の一部で、それが誰かの人生の価値を少しでも高められるものでなければと思うのです。

10もらったら自分の分の1を足して11にして返す。

そのためには、自分が漠然とした世間の中で優越感を抱くために何かを得ようとするのではなく、優越感を抱かせてくれる誰かのために何かを得よう、何者かになろう、とする努力が必要なんじゃないか。

例えば僕の個人的な能力で言えば、多少筆力がある方だと思います。だけど僕が人より書くのが早かったり、苦じゃなかったりするだけの優越は持っているだけじゃ意味がない。

書くことで誰かの悩みを解決できないか、誰かを楽しませることができないかという風に考えてはじめて僕は僕の優越を価値にすることができるのではないか。

優越感は誰かのためのはみ出た自分の一部分

優越感は必要だと思います。

ただそれは自分が持っているものではなく、人にお返しできる分、10からはみ出た誰かのための1なのです。

はみ出た1がやっと他者にとっての価値ある自分なんだから。

そしてそのためにこそ人は人と関わり、働くのだと思うから。

どんな価値観の上でも揺るがない優越感は、大切な他者との間に生まれるものだというのがすべてに打ち勝つ真理なのではないでしょうか。

キンブリーさん好きで書いた記事→キンブリーさんの中立性/中立キャラが物語を動かす

「優越感なしでは人は幸せになれないのか/『鋼の錬金術師』が刺さる、何度も。」(完)

コメント

  1. 樋口 より:

    自分の中から1を作り出し、それを人柱として幸せを作る。
    真理の扉を
    開くより難しくて、誰にでもできること。かも。

    コメント書きやすくなりました!

    • kzy より:

      コメントありがとうございます。

      真理の扉を開くより難しくて、誰にでもできること。

      僕もそう思います!
      タイトルのアドバイスもありがとうございました!

  2. KY より:

    いつも楽しく拝見させて頂いてます
    初めてコメントさせていただきます

    結局どちらのタイプの優越感であっても優越感なしでは人は幸せになれないのでしょうか?
    それとも人はみんな最初から周りの力によって幸せにしてもらってる?のに人と比較してるから不幸だと感じるんだ、優越感、劣等感を別の方向に向けようぜ!ということでしょうか?
    的はずれな質問でしたらすいません

    返信頂けたら嬉しいです

    • 塚田 和嗣 より:

      KYさん
      コメントいただきありがとうございます。
      確かに、タイトルの答えを示し切れていない内容ですね。自分で読み返してみても分かりにくく、余分な文章があるようなので、リライトをする必要があると感じました。
      さてご質問の件ですが、端的に言えば「優越は人のためにあると気付けば幸せなんじゃないか」ということを考えていました。優越感には主観で得られるもの、客観(他者評価)で得るものの2種類があるが、いずれにせよ他者が存在しなければ起こりえない感情だという話を書きました。もっとはっきり言うと優越感は「錯覚」であり、本質は周りの人間が握っている。人より有利な立場にいること、人より優れた力を持っていること自体は、思っているほど自分の絶対的な価値を高めてはいない。では僕たちが生きていく上でどんなことに価値があるのかというと、単純に「みんながいる」ということであると思います。「一人じゃない」ということでもある(身近に仲間や友人がいるとかに限らず、とにかくこの世に他者がいるってことが大事)。そう考えれば、優越感を抱いたときに大切にすべきは、そんな風に自分の優れた点を気付かせてくれた「みんな」なんじゃないかという発想に至ります。
      自分は他の人よりこの点が優れていると知ることができたら、それを「誰かのために使えないだろうか?」と考えられないだろうか。もしくは、「今度は自分が誰かの優れた点を(間接的にでも)伝えてあげることができないだろうか?」と考えたらどうだろう。きっとそれを繰り返せば他人にとって自分はなくてはならない人になる。つまり誰かの優越感の源になれるかもしれない。数少なく、錯覚と言っても過言ではない自分の優れた点、恵まれた点を大事にするよりも、誰かの「力」になれた方が幸せなんじゃなかろうか。
      よって、KYさんが仰るように、「優越感や劣等感を別の方向に向けようぜ!」という解釈と僕の言いたかったことは大きく違わないと思います。優越感は自分が人の役に立てる材料だし、劣等感は誰かの優れた点を伝えるための材料になる。
      また、できれば比較せずに生きていきたいところですが、どうやら無理っぽいなと僕は自分に感じています。どうしても周りの人とか、漠然とした世の中の人と自分とを比べてしまって、たいていの場合は劣等感を抱く場合が多いです。よって比較が不幸の始まりということも多分僕は感じているのですが、比較で終わらず、そこで生まれた感情をセンサーにして誰かのために活かせないか?を考えたら「幸せの総量」が増えるかもしれない。
      少々無理やりかもですが、「10もらったら自分の分の1を足して11にして返す」というエルリック兄弟が辿りついた法則は、そのように解釈することもできるのではないか、と思いました。
      長くなってしまいすみません。もちろんこれは仮説であり、そうなんじゃないかな?と僕が思ったというだけのことです。ご不明な点や納得しにくい点があればまたコメントくださると嬉しいです。

      塚田 和嗣

      • KY より:

        返信ありがとうございます
        優越感と幸せの話とても理解出来ました

        今、自分には少し幸せについて考える機会が与えられていたためこのような質問をさせて頂きました。
        あまり文章を書くのが得意でないのに加え、幸せについて考えがまとまっていないため、これから先は質問とも言えないような自分の感じたことをつらつらと書きたいと思います…偉そうになってしまいますが何か汲み取って頂いて幸せについて記事を書いていただけたらなと思います…

        確かに優越感、劣等感と幸せ、不幸の関わりはとても深いように感じました。ジョージアのcmの「世界は誰かの仕事でできている」はわりと塚田さんの仰る幸せモデルに近いのかなと感じました。

        少し難しい話を出してしまい申し訳ないのですが、今の時代はマズローの欲求段階説において、第5段階自己実現の欲求に入ってると考えます。つまり、自分らしい自分になることに対して幸せを感じるのだと思っています(違うかもしれませんが)
        そう考えるとこの幸せモデルは第4.5段階位の場所にあるのではないかなと感じました。もしかしたら、第4.5段階でもなく、別軸のところにある全く新しい幸せの形なのかなとも感じます。
        幸せは3つに分類できるかなと考えています。認識できない、しにくい幸せ「幸運、ラッキー」、認識できる見返りのある幸せ「幸福」、認識できる無条件?の幸せ「至福」の3つですかね。
        他者の評価に影響される優越感からの幸せは他者からの羨みがあるから幸福、他者の評価に影響されない主観100%の優越感による幸せはどれだろうか…これは先程話した自己実現に近いのだろうか?
        それでもって、塚田さんのおっしゃる優越感を他人のために使うというのはやはりなんだろうか?他人にとって絶対に必要な自分になれるというというのは自己実現だけど、果たして自分らしいのか?と疑問に思ったのでした。

        駄文失礼致しました。

        • 塚田 和嗣 より:

          ご返信ありがとうございます。KYさんが投げかけてくれる話題はいま僕が個人的に考えている問題と接近することなので、僕も返答というよりは改めて考えながら整理しながら、つらつらと書いてみようと思います。アホかというくらい長くなりそうなので適当に流し読んでいただければと思います。まず幸せについて、一番元も子もないことを言いますが、「幸せについて考えない時間こそが幸せ」であると思います。とは言えそれではつまらない(でも後のため覚えておいて欲しい)。もう少し輪郭のはっきりした尺度で言えば「幸せとは選択肢があるかどうか」だと思います。例えばブラック企業で働いていること自体は不幸ではなく、他に選択肢がなく、そこにいるしかないことが不幸なのでしょう。選択肢がない、という状態は人生をコントロールする力の喪失であります。しかし、選択肢が多ければ多いほど良いというわけでもなく、僕たちはあまりに選択肢が多いと不幸せになることが分かっているそうです。適度な選択肢が欲しいです。エアコンとテレビのリモコンがあると嬉しいけれど、航空機の計器類やスイッチを好きにして良いと言われても困る、みたいな話です。僕らは自分の人生をコントロールする選択肢を増やすためにとりあえず勉強し、人と会い、お金を稼ぎ、時間を惜しむのかもしれません。少し話が逸れましたが、現代はKYさんが仰る通り自己実現の欲求段階に足を踏み入れている時代だと思います。僕個人で言えば少し前まで「ストーブ買わないと冬越せないけどお金もそんなないぞ!」みたいな状況でしたからまだ第二段階くらいをうろうろしていますが、時代としては豊かだと思います。では自己実現と言うけれど、その実現すべき自分とは何だ?という問いが生まれやすい時代でもあるのではないでしょうか?現代に生きる僕らの可能性は広がっています。その気になればどんな生き方でもできます。これは幸せなことでしょうか?もちろん幸せなのだけど、「無限の可能性」とか言われるとかえって選びようがなく、どうして良いか分からない人も増えると思います。自分って何なんだろう?自分らしさとは?自分は何を幸せと感じるんだろう?その問いは、逆説的な話ではありますが幸せから遠ざかる問いとなってしまいます。「幸せについて考えない時間こそが幸せ」なのだとしたら、「自分にとっての幸せとは何か?」という問いは地獄の問いです。では、自分を規定する道しるべとなるもの、手がかりとなるものはなんでしょうか?それが他者だったり、過去の自分だったりするのではないか。そういえば僕がああしたとき、あの人が喜んでくれたな、あのとき嬉しかったな、あの人は僕のこういうところが良いと言ってくれたな、あのときも嬉しかった。あれはうまくいかなかったし迷惑かけたな、二度とやりたくないな。あの人かっこ良かったな、ああなりたいな。そういう風に僕たちは自分というものを他者との関わりの中で発見していくのだと思います。自分らしさというものを作っているのも、実は他者なのではないか。これは、比較対象がなければ僕らは自分のことさえ分からない、ということであります。比べるもの、目印、拠点があるからこそ自分がどこにいるのかが分かる。僕らは何かを知るために「比較」をすることを避けられない。自分とは何か、幸せとは何か。それを考えるとき、比較しながら、自分の位置を確かめなければならない。ここでようやく優越感の話に辿りつきます。僕らの優越感や劣等感は比較によって芽生えます。優越感には2種類あるとは僕が書きましたが、実はKYさんにコメントをいただいてから、2種類の優越感の話は混乱の種になると思いリライトではほんの少しふれるだけでほとんどをカット致しました。他者評価による優越感と、絶対的な優越感がある。これは面白い話だと思います。しかし、考えました。例えば僕の「声」がとても優れていたとして、そのことに僕がまったく興味がなかったらそれは優越感になるでしょうか。声なんてどうでも良いよ、と思っている場合、そこに優越感は芽生えないかもしれない。つまり、優越感を抱くという時点で既に自己満足の、主観100%の尺度というものが働いている。ここは自分でも気に入ったぞ、という感覚なくして、誰かと比べて優れたものを持っていたとしても優越感は起こりにくいんじゃないか。劣等感もしかり。前回のご返信では、「優越感を他者のために使うと幸せ」と書きましたが、それは自己満足と主観という土台ありきの行為だと思いました。声が良いと言われたからと言って誰もが声優や歌手を目指すわけじゃない。そこに納得がなければ優越を活かすという発想にならず、それで人の役に立とうとも思わないし、喜ばれてもそれほど嬉しくなかったりする。こんな経験もまた、自分を知る目安になります。これらの話を通して何が言いたいかと言うと、「優越感を他者のために使う」とは言っても決して犠牲的精神によるものではないということ、「また優越感を他者に与える」という場合もただ褒めそやすとかおだてるとかではなく、「選択肢を与える」という風に捉えられないだろうか、ということです。「あなたはここが優れている」と伝えて、それをどうとらえるかは相手次第。僕たちはつまり「欲求と選択肢の交換」をしている。他者に与えられた選択肢の中から自分の欲求を満たすものを選び、人生をコントロールする。他者に選択肢を与えるということは、誰かが自分の人生をコントロールする可能性を上げる、ということでもあると思います。少し言い方と視点をかえれば、誰かに選択肢を提供できるということは、その誰かに「影響を与えた」ということであり、間接的に他者をコントロールする手段でもある。いずれにせよ利己的な欲求があります。少し話が広がってしまいますが、これは単純に「コミュニケーションの欲求」とも言えると思います。僕らは人と何らかの形で関わりたいと思っている。誰かに影響を与えたいと思っている。僕らは自分の力で人生をコントロールし、相手をコントロールし、世界をコントロールしたいと思っている。その世界とは、数ある選択肢の中から自分で選び取って寄せ集めた世界である。そういう世界にいるとき、きっと僕らは幸せの中にいて、幸せについて考えることは少なくなる。つまり幸せに近づく。というようなことを考えました。やはりアホかというくらい長くなりました。すみません。KYさんが何かを考えるきっかけになれば嬉しいです。

          塚田 和嗣

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