時間があるとき、デジカメとビデオカメラとドローンを持って道内をドライブします。
暖かい季節、せっかく良い天気だし、ドローンなんて遊び道具もあるし、自分の町に引きこもってるのもさすがの引きこもり体質な僕でももったいないと感じる。
にしてもやはり根が引きこもりなので、基本的には観光地よりも親近感が抱ける小さな地域だったりを狙って行きたいなって思ってる。
そういうことで今回訪れたのは音威子府村。
北海道で一番小さな村であり、北海道命名の地としても知られているここは北海道民たるもの一度は足を運んでおいて良いところなのではないかと思います。
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北海道命名の地は盲腸の赴き
でもしょーじきな話、北海道命名の地って言ったところで空き地に「北海道命名の地」って碑が立ってて、命名した松浦武四郎のこととかがちょっと書いてあるパネルがあって、目の前に天塩川が流れてるっていう、すごく素朴で、行ったところでどんな気持ちになるのが正解なのかよく分からないところです。
松浦武四郎の足跡を辿ってる人とかでもない限り面白くも何ともない場所と言わざるを得ない。
そもそも北海道ってこういうところ多いと思うのです。
北海道に限らず観光地ってそういう傾向があるのかもだけど、「行った」という事実しか残らない感じ。とりあえず写真撮っとくか…みたいな。
特に北海道は、ポイントからポイントまでの移動距離が長いので、ドライブしたら運転者以外寝るっていうのもあるあるですよね。
「北海道命名の地」
行ったは良いけど全然何かが始まるような感じはしない。
むしろ音威子府という地域のどん詰まりのようにすら感じる場所です。
人間の体で言ったら盲腸的な雰囲気すらあるような。とにかくそのときは僕一人だったしすごく寂しい気持ちになりました。
「北海道命名の地ってことは蝦夷の終わりの地でもある、のかなあ?」なんて考えちゃって。
アイヌと蝦夷
蝦夷と言われると、アイヌ民族の存在感がより立ち上がってくるような感じがします。
アイヌ民族は(主に)北海道の先住民族で、独自の文化・言葉を持ちます。
北海道の地名にアイヌ語由来のものが多いことはご存知の方も多いとは思いますが、そもそも北海道という名称もアイヌ語が由来となっています。
どこがと言えば、ホッカイドウの「カイ」の部分。カイとはアイヌ語で「この国に生まれた者」というような意味を持つらしく、アイヌ人たちの自称だったそうです。
そこで、「北のカイ(加伊)が住む場所」に「道」をつけて北加伊道となりました。
なんで道?というと、当時は東海道とかって道が付くところがいくつかあったらから、その流れで自然に「まあ北カイ…道だろ」みたいな感じなんじゃないだろうかというのが定説なようです。
ところが北海道という名が付いた明治時代、アイヌ民族は名称が変わるに乗じて同化政策を受け、独自の文化が否定された歴史を持つので、差別被害の暗い歴史を持っていたり、今ではアイヌ民族というのは存在しないと考えている方も少なからずいるようです。
日本(特に北海道)では現在でもアイヌの血を引く方が少なからず生活しており、独自の文化を大なり小なり守り続けているようですが、控えめに言っても文化復興の先行きが明るいとは言えないのが現状なのではないでしょうか。
音威子府でアイヌ民族について考えた
そう言えば、今思いだしたから唐突に書くけど、音威子府ではじめに行った神社でお祭りの準備してた人たちすごい優しかったな。
人の善性にはそれほど差がないと思うけど、地域性みたいなのはあるような気がしてて、音威子府で会ったあの人たちは少なくとも話しかけにくいオーラはまったくなく、お話ししてて楽しかったです。
さて言わばここからがこの記事の本題です。音威子府で僕が一番楽しいと感じたところの話。
砂澤ビッキという彫刻家の作品が展示してある、おさしまセンターというところに行って、アイヌの精神の片鱗のようなものを見たので、おすすめ情報としてお伝えしたいと思う。
おさしまセンター自体の情報はこちらに詳しいです。↓
砂澤ビッキの作品が見られるおさしまセンター
彫刻を見て、怖いと感じたのは初めてでした。
僕はスピリチュアルな敏感さを持っているとは言えないと思うけど、鈍感な僕ですら、砂澤ビッキの作品には感じるものがあった。
怖いというのはグロテスクとかそういうことではなく、「畏れ」という字がぴったりな、気迫を感じる怖さです。
命が脅かされる怖さというよりは、魂が敵わない怖さ、屈服せざるを得ない怖さ。
このように書くと大袈裟なようだし、実際に大袈裟だと思う。言葉の不便なところで、それらしい言葉を重ねるとどうしても行き過ぎてしまう。文章上で誰かを褒めるとやたらパーフェクト人間みたいなのが出来上がってしまったりしませんか。
姿勢を正してもう少し忠実に伝える努力をすれば、砂澤ビッキの作品から感じる怖さは森林浴中、一瞬森がザワザワって鳴って、不安になる感覚に似てる。あ、閉じ込められるかも、出られないかも、みたいな不安感。思わずごめんなさいって言いたくなるような。俺何かヤバいことしたかな…という。
砂澤ビッキはアイヌの血を引いていますが、「アイヌの彫刻家という枠にはめられることを嫌った」そうです。wikipedia参照
だけどその作品からはアイヌらしい自然への畏敬が込められているような気がして、自然と対峙した彫刻家の作品なような気がして仕方なかったです。
だって普通、木に彫刻刀突き刺したらそれはもうただの木材であって、命ではないじゃないですか。彫刻を見て、まだ生きているようだと感じたのは初めてです。中心から割れば心臓があって、血がドクドク流れてきそうで、壊すようよりは殺してしまいそうで怖かった。
しかしこういう感想も文章上の不便です。正確に自分自身を描写するとすれば、「口が開きっぱなしになった」くらいの衝撃。でも彫刻作品でそんな経験をしたのは初めてだったのは確か。
これはカッコいいと思いました。アイヌは万物に対して霊魂が宿ると考えるいわゆるアニミズム信仰を持つ民族だと言われると思いますが、霊的なものと対等に渡り合える魂を持っていた人が実際にいたのだなと感じさせるのに十分な作品がおさしまセンターには多数展示してあります。
八百万の神とアニミズム
日本人の中にも「八百万の神」と言うくらいなのだから世の中のあらゆるものに神が宿るという思想は根付いているはずです。これはこれでアニミズム信仰であると言えるのかもしれないけど、なんか違うんじゃないかとも思う。
詳しい訳じゃないから鵜呑みにしないで欲しいんだけど、僕らが言うあれにもこれにも神様がいるっていう考え方は言わば人外のものを擬人化して考える方法だと思う。
トイレにも神様がいる、あらゆる道具に神様が宿ってる、山にも神様がいるなんてよく言うけど、どれもこれもイメージとしては仙人みたいな存在だったり、人間みたいな意志を持った何かがいるというものだと思う。だから大切にしようね、礼儀正しくしようね、感謝しようねという感じ。
対してアイヌのアニミズムにおける精霊というのは、「それぞれ違った形の魂の在り方がある」という考え方なんじゃないか。
僕らにとっては異形の存在で、住む世界が違って、言葉も全然伝わらなくて、もっと計り知れない恐怖を感じるような、ファンタジックな質感です(この感覚が砂澤ビッキの作品にはある)。
そしてその魂の在り方の一つとして「人間」という存在があり、お互いに違った魂の在り方として尊重し合うからこそ「対話」が重要になる。
現代文明は何かと神なる自然を抑え込もうとするけど、その発想は心のどこかで自分たちの方が上だという意識があるから生まれるものなんじゃないか。
アイヌ民族の自然との付き合い方はあくまで対等であり、だからこそ現代文明には受け入れがたいところがあるのかもしれないけれど、区別をするとしたらその姿勢なのではないかと思う。
どちらが優れているかは分からないし、精神的なものであればなおさら、何が正しいという話でもないのかもしれない。
だけどアイヌの根本を理解しようとする上で、砂澤ビッキの作品が持つ説得力に触れる機会はないよりあった方が良いと思いました。
モノに魂が宿ると信じられるか
砂澤ビッキはアイヌの彫刻家という枠にはめられるのを嫌ったと言うことですが、この書き方ではまさに砂澤ビッキ=アイヌの彫刻家というイメージになってしまいます。
だから最後にただの彫刻家としての砂澤ビッキと音威子府について書いて終わりたいと思います。
血統には関係なく、彫刻家として砂澤ビッキの作品には魂がこもっているようでした。仕事に魂を込めると作品に宿るのだと思わせてくれる作品が多数あります。
もし凝が出来たら絶対にオーラ見えるってヤツ。
音威子府には工芸高校があります。彫刻とは限らないのだろうけど、多くのクリエイターが生まれる可能性がある村なんですね。
近くにこんなお手本があるのはとても恵まれたことだと思います。なかなか見られるレベルのものではない作品が近くにある。モノに魂はこもる。
仮に彫刻とか絵画とかじゃなくても、例えば文章とか、ダンスとか、あらゆる仕事にも魂がこもることは一緒だと思う。それを知っているのと知らないのとで、仕事に大きな差が出るんじゃないだろうかって考えた。
音威子府村で見たアイヌの魂の片鱗(完)
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