小説や物語を書くときに忘れがちな、「みんな幸せ目指して行動する」という当たり前のこと。

『明日の幸せを科学する』っていう本を読んでいて、目から鱗が落ちた箇所があった。

明日の幸せを科学する(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

すべての人は幸せを求める。例外はない。用いる手段がどれほどちがっていても、みなこの目標に向かっている。戦争へ行く者の理由も避ける者の理由も、同じ願望に異なる視点が加わっただけである。この目的のためでなければ、意思は一歩も足を踏みださない。これが、あらゆる人のあらゆる行為の動機であり、みずから首をくくるような場合でさえ当てはまる。70p

「そんなの、当たり前じゃね?」と思う人もいると思うし、僕だってそりゃそうだって思った。

じゃあ何で目から鱗が落ちたのかというと、「あれ待てよ、小説書いたりなんかの物語のアイディアを練ってるとき、このこと忘れてないか?」って思ったから。

この人間として当たり前で、わざわざ言われなくても分かるような「生きる原理」が、僕の空想上の人間には働いていないことがないか?と思ったから。

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「人間はいつも幸せを目指す」という行動原理を忘れた文章

つい、物語を考えるときには「不幸な人間」を作ってしまいます。

物語には「問題の解決」があって、「困難の克服」があるのが普通だから、こなれていけばいくほど問題や困難を作るのがうまくなる。

主人公やその周辺の人物はやたらと心の傷を抱えていたり、大きな障害に悩まされていたりしている。厄介なトラウマとか闇を抱える人が物語内ではやけに多くなる。

だから初めの方からやけに感傷的な描写をしてしまったりしますよね。悲しみとか絶望と言ったトーンを出すために、ついつい簡単に人を不幸の中に放り込んで、書きたい希望を盛り上げようとしてしまう。僕だけじゃないよね?

例えば下みたいな文。

知らず涙が溢れ、便箋の文字が霞んだが、視界が滲んだのか、文字が濡れてしまったのか、判断ができなかった。いや、○子にとってはどちらでも良いことだった。

こんな風に「悲しんでいる人」を適当に作って、「手紙」みたいな小物を用意して、自暴自棄感すら漂わせて、「なんか相当悲しいことがあったんだな」って読んでる人には思わせたいんだけど、リアリティがないからどこか鼻につく描写になる。

多分この前段の文では、泣いてる主人公が居る場所とかの描写があると思う。

午後11時とか半端な夜を設定し、部屋には明かりがついてないけど、部屋に差し込む街灯の灯り(絵的には月の灯りとしたいところだけどさすがに自重する)を頼りにくしゃくしゃになった便箋を掴むだろう。

細部を書くことでリアリティを出そうとするけど、書いてる本人が一番リアリティを感じないなんてこともあるはず。いくら書いても現実っぽくない。切実なものがない。

それは、人間は例外なく幸せを求めて行動するという大原則を忘れてるからじゃないか。ただ無暗に悲しんでいる人を書いているだけだからじゃないか。

やることは違っても、幸せを目指していることは一緒

人は悲しいとき、泣くことも、部屋の明かりをつけたくないと思うのも、読めば悲しくなると分かってる手紙を読み返すのも、おかしな話だけど、全部幸せ目指してやってるはずなのです。

とても悲しいことがあったとき、会社を無断欠勤するとか、大食いするとか、逆にめちゃくちゃ陽気に振る舞うとか、人によっていろいろな手段があると思うけど、どれもこれも幸せ目指してやってることに違いはない。

幸せってのはいわゆるオレンジ色な雰囲気の形が決まった何かじゃなくて、「今よりマシ」とか、「気持ちよくなれそうな予感」と言った方向にこそあって、それを目指す行為は、どれだけ理解しがたいものでもすべて幸せを目指す行動だと言えます。

不幸のどん底にいるから不幸っぽい人間の行動をするのではないし、悲しい出来事が起きたから悲しんでいる人っぽい行動をするワケでもない。

それぞれが思う幸せを目指して行動すれば、結果的に「ある程度定型化される行動を取るものだ」とも言えるだろうし、結果的に「人によって全然違う行動を取ることもある」とも言える。

悲しいことが起れば泣く人が大半だろうけど、笑っちゃう人もいて、この場合笑っちゃう人は大半の人に変に見えるかもしれないけれど、目指す先は一緒で、それは「幸福」だ、ということ。

不幸や問題を書いてなんぼの物語でも、人の幸福を願わなければ

どこまで書いても「そんなの当たり前じゃない?」って域を越えないんだけど、少なくとも僕はこういう単純なことを忘れてしまう。

例えばちょっと変わった人を書こうとして、悲しい出来事が起きたあとにあえて笑わせてみたりするようなことが、フィクションを作る段階ではあるということです。

このとき、僕は「ちょっと人と違う反応をする人」を書きたいのであって、登場人物の幸福を願っているワケではない。その行動が、登場人物の幸せに向かっていることを意識しているわけじゃない。

なんならちょっと不幸を願っている。もっと面倒なことになれ、もっと困難な場所に行けと思う。

この人はちょっと変だからこういうとき泣くのではなく笑うのだと思って書いてるから、その人の行動が空虚になる。

人を人として扱ってないから、どれだけ理屈を並べても、設定を増やしても、「人」が書けない。

だからこそ、「当たり前じゃない?」って部分をよく考えながら書かなきゃいけないなと思うのです。

泣きたいときに笑っちゃう人がいるのなら、その人が笑うことで少しでも「幸せ」にたどり着く根拠がなければいけないし、そういう筋道が用意できないなら、ただ変わったことをするのは(させるのは)止めた方が良い。

何をすれば幸せなのか、本人が完璧に分かっていなくても、作者だけは分かっていなきゃいけないと思う。

幸福なシチュエーションでも不幸になることはある

ついでに現実のことについても少し触れておきたいのだけど、「人にとっての幸福や不幸というのは、状況にあるワケではないのかもしれない」なと思うのです。

人は不幸な状況にいるから不幸なワケではないし、幸福な状況にいるから幸福なワケでもない。

これも言われてみれば当たり前なことだけど、僕はよく分かっていなかった。

例えば「家族で食卓を囲んでおいしい料理を食べる」のは幸福かもしれない。

反対に、「狭くて寒い部屋で一人缶詰だけの食事をする」のは不幸かもしれない。

だけど、それはあくまでシチュエーションがそれっぽいというだけで、その状況にいるメンバーがみんなそのシチュエーションに沿った感情でいる保障なんてありませんよね。

家族で美味しい料理を食べていても不幸なことはあるし、一人で缶詰食ってても幸せなことはある。

「だから、当たり前じゃん」って話なんだけど、幸福や不幸には一定の型があるとつい思ってしまうし、信じてしまう。物語を書く人は、きっとそれじゃダメなんだ。

幸福を目指す手段があるのは幸福で、それ自体が幸福

じゃあ本当の幸福とか不幸って何なのかと言えば、やっぱり行動の方に主眼を置いて、幸福を目指せるかどうかで判断するものだと思います。

つまり不幸とは幸福を目指す手段が全然ない状態であって、幸福とは幸福を目指す手段があることではないでしょうか。

例えば、家族で食卓を囲むのが本当はすごく嫌な長男がいれば、その人は傍から見て幸福なシチュエーションの中にいながら不幸な人物になりえます。

だけどそれが不幸なのは、口うるさい父親といつまでも子ども扱いする母親、食べ方が汚い妹に挟まれて息苦しいからではなく、その「食事は家族で取る」というルールから抜け出せず、「家族の変更もできない」という動かしがたい状況があること、その他の選択肢が与えられていないことです。

つまり、人が本当に困っちゃうのは、ただ不幸な状況に巻き込まれたり、不幸な体験をすることにあるのではなく、幸福を目指す行動や思考が封じられちゃうとき。

反対に、傍から見て不幸な境遇でも、人は幸福を感じられるものですよね?

しつこいようだけど「そんなの当たり前」、「言われなくても知ってた」ですよね。

でも架空の人物を扱うとき、少なくとも僕は簡単に人を不幸なシチュエーションに放り込んで、不幸な状態を作り出そうとしてしまうことがある。それで不幸な主人公を作ろうとすることがある。だから分かってないんです。

いや待てよどうだろうな。

現実でも「幸福」ではなく「幸福なシチュエーション」を目指して生きている人がいるし、「不幸なシチュエーション(誰かに同情されるとか)」だから「不幸」だと感じる人もいると思うから、当たり前なことが分かってない状態の方が普通なのかもしれないな。

もしかしたらそういう部分にもリアリティがあるのかも。

小説や物語を書くときに忘れがちな、「みんな幸せ目指して行動する」という当たり前のこと。(完)

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