芥川龍之介『羅生門』の一番怖いところはどこ/作家の好奇心

初めて芥川龍之介の『羅生門』を読んだときに感じた得も言われぬ怖さ。

その正体がふと捉えられた気がしたので記事にします。

色々な怖さが立ち込めています。

仄暗い雨降りの景色の中で佇む下人。面皰(にきび)に焦点を当てられるところ。楼閣の中に転がっている死体。そしてその中で一人女の髪の毛をむしる老婆の姿、などなどの映像的な怖さが一つ。

飢饉や火事など、災害による都の荒廃、盗人や殺人が横行する治安といった時代的な怖さがもう一つ。

さらに、そんな折に暇を申し渡され、行く先が見えない下人の倫理が崩壊していく人間的な怖さ。

倫理が崩壊していくというのは少し違うかもしれないですね。下人が持っていた当たり前の倫理や正義が通用しないという状況になったというだけで、それを受け入れたというだけなのだから、倫理観のアップデートがされたということなんだろうなと思う。

そして最後の

「外には、ただ黒洞々たる夜があるばかりである。下人の行方は、誰も知らない」

という、含みを込めて、かつ余韻をたっぷり残す文章的な怖さが、『羅生門』には詰まってる。

だけど僕がいっちばん怖いと思うのは、何よりこの話をまるで実況するかのように追っている作者の好奇心なのです。

以下、引用が必要なところは青空文庫のテキストから引用します。

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『羅生門』には「作者の介入」がある

『羅生門』は、変に作者の存在感があるお話しだなと僕は思います。

作者はさっき、「下人は雨止みを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨が止んでも、格別どうしようという当てはない。

という文章があるせいだと思う。

神の視点とか、単なる三人称という書き方ではなく、作者はーって言っちゃってる分、生身の人間感がある。作品内に作者が登場しちゃってる状態です。

二葉亭四迷の『浮雲』にもこうやって作者が出てくる書き方がありました確か。

顔の微笑が一かわ一かわ消え行くにつれ、足取りも次第々々に緩やかになって、終には虫の這うようになり、悄然と頭をうな垂れて、二三町程も参った頃、不図立ち止まりて四辺を回顧し、該然として二足、三足立ち戻ッて、トある横町へ曲り込んで、角から三軒目の格子戸作りの二階屋に這入る。ちょっと一所に這入ッて見よう。

これ。「ちょっと一所に這入ッて見よう。」

急に作者が出て来る。

『小説の技法』にも「作者の介入」として紹介されている方法で、その気になって探せば意外に多くの作品で用いられている方法だと思います。

あ、僕が今思いつく限りでは町田康の『告白』でも、急に作者が主人公に「ツッコミ」を入れるところがあった気がします。「アカンではないか」みたいな調子で。ちょっと本が手元にないからちゃんと引用できないのだけど、気になる方は確認してみてほしい。

このときの介入する作者が、まったくひねりなく、物語の作者、つまり小説家であるか、小説内で作家として設定してある誰かなのかは分からないし作品によるのだと思います。

『羅生門』で言えば、芥川龍之介が自分のことを指して「作者は―――」と書いているのか、あくまで視点に臨場感を出すとかそういう目的で架空の作者を設定しているのかは分からない。

ただ、いずれにせよ何らかの効果を狙って「作者の介入」という技法を使っているには違いありません。

その効果は、あくまで僕が感じる範囲でだけど、作者の介入に引きずられ、読者である自分も物語に近づくということ。

まるで、作者の後ろにこっそりついてて、「おい、あそこに下人がいるぞ、雨止みを待ってるんだろうか、いやあの様子だったら仕事がなくなって行き先不安というところだろうか」とかブツブツ言ってるのを聞いてるみたいな感じ。

物語を読んで想像させられるのは、この作者は作者で雨の中、下人が羅生門のところで佇んでいるところをジッと執拗に見ていて、恐らく望遠鏡のようなものすら使って見ていて、楼閣の二階に上がればそれをこっそり追い、老婆とのやりとりも逐一メモに取ったり考察したりしてる、ということ。

作者の好奇心

目の前で起こることはそりゃ恐ろしいのだけど、ちょっと冷静に、物語ではなく、「物語を語る側」という視点で見ると、隣にいる作者を一瞥して「いやあんたは何なんだ、何が目的でこんなことしてるんだ」と言いたくなるかもしれません。

目的も何も、それは多分「好奇心」意外のナニモノでもないなと思います。

おいあの下人どうすると思う、どうなると思う。

っていう好奇心。

語る動機として、好奇心以外のものがあるだろうか。

原典と比べると、芥川龍之介の『羅生門』はやはり下人の葛藤のあたりに焦点が当てられるように意図されているように見えます。

でも同時に、そのテーマが何かのカモフラージュにも見える。

好奇心を持って見たものを伝えるために、「それらしく」処理しただけかもしれない、とも思う。

個人的には、テーマ性よりもただ好奇心で作者が動いていた方が面白いなと思います。

それで仮に、本当に作者が好奇心だけで下人を観察しているとして、僕がえっ?って思ったのはこの部分です。

「では、引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪にして、門の下を覗きこんだ。

ここ。下人に目を付けて、下人の後を追って、やったことを全部確認したあと、作者は当たり前のように下人を見ることを止めるんですよね。

「またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。」

の後、下人を追うこともできたはずです。

「下人は老婆の粗末な着物を振り回し、ときおり短い咆哮をあげながら、夜をひた走った」のように続いてもおかしくないと思います。

ところが「しばらく、死んだように倒れていた老婆が」と続いているのを見て、えっ?って思う。作者、老婆見ることにしたの?となる。

作者の顔を見ると、老婆の姿を凝視していて、下人がどうなるかなんてもうまるで興味がない様子。

暴力を受けて、身ぐるみ剥がされて、自分の身可愛さのあまりあれこれと言い訳がましく喋って、下人に開き直る機会を与えてしまった老婆のこのあとの方が作者は気になったのだ、と分かる。

そう思うと、最後の

「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。下人の行方は、誰も知らない。」

これも言葉通りではない空気を僕は感じます。

とりあえず終わらせようとしているような。下人の話はここでお終いと言っているような。

「下人の行方は、誰も知らない。」

って言うけど、多分作者にとってはもう興味の対象ではないのです。下人がどこに行って何をしようとも別にもう良いよ、どうせ適当に盗人になって、必要なら人を殺したりするんじゃないの。知れてることをする人にあんまり興味ないんだよね。そういう冷めた視線すら感じる。

知らないっていうか知ったこっちゃない、きっとこの先下人についていっても予想外のことは起こらない。

それより面白いのは老婆だよ。老婆の方がこの先どうなるか分からないじゃないか。老婆は下人の行方が気になってるらしいけど、どうだろ、追うと思う?泣き寝入りすると思う?どうやって生きていく?あんな開き直った侍崩れが跋扈する場所で生きていけると思う?気付いちゃったんだよ、開き直れば済む世界じゃないって。そもそも、ここまで惨めになってまだ生きていたいと感じると思うだろうか、どうだろうか。

そういう作者の果ての無い好奇心というか、人間の精神を遠慮なく観察しようとする凄みが文章の手前にあることに、恐怖を感じる。

芥川龍之介『羅生門』の一番怖いところはどこ/作家の好奇心(完)

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