noteがリリースされたのは今から4年前とかでしたでしょうか。
うろ覚えなので調べてみると2014年4月リリースらしいので、もうすぐ丸4年ということかな?
約4年前、自分の創作物に値段を付けられる創作物のフリーマーケットともいうべきnoteのサービスにはじめて触れたとき、大きな時代の変化を感じたのを覚えています。
noteに限らず、創作物をお披露目する場はネット上にいくらでもありましたが、それでもnoteのように、直接お金に繋がる活動ができる場はそれまでなかったんじゃないかなと思います。知らないだけかもだけど。
プロと素人の垣根はゆるやかに取り払われ、実力や工夫次第で、かつては夢のまた夢だった創作でお金を稼ぐという行為を目指すハードルが下がりました。
ハードルが下がったというだけで簡単になったというわけではありません。それだけ競争が激しくなったということでもありますし、埋もれやすくなったということでもありますから、決して簡単なわけではありません。
しかし、例えば小説家としてお金を稼ぐ手段と言えば、それまではプロの作家になるしかなかった。プロにならなければ創作物はお金を生むものではなかった。
同人活動で手売りという方法はずっとあるからこれは正確ではないと思うけど、ネット上にフリーマーケットのような場ができることで、製作にかかるお金がほぼゼロになり、手間も圧倒的に削減され、そういう意味でも良いテンポで創作を人様にお披露目して、お金を稼ぐという行為のハードルが下がり、現実的になりました。
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小説で5万は稼げるというプロの形
noteでお金を稼ぐのは全然簡単なことではありません。ありませんってか、簡単ではないと思います。それは一目で分かる。レベルが高い、みんなすごく工夫してる。webとの相性もある。
でも、1か0だった創作活動の形にちょっと変化が起こったことは間違いないですよね。
小説家として生計を立てるのは難しいかもしれないけれど、得意な分野の創作で月に5万円稼ぐとか、そういう道に対する希望が生まれたのです。
それで小説家と言うには無理があるかもしれないけれど、決して純粋なアマチュアではない。
noteのような参入障壁の低いマーケットで少しでもお金が稼げるなら、むしろプロの実力を凌駕した実力や時代性を持っている人かもしれない。
プロと素人の垣根がゆるやかに取り払われ、とさっき言ったけど、それは小説家になれるかどうかという点ではなく、小説で5万稼ぐ方法があるという意味において、プロの定義がどろどろに溶けていったというようなイメージです。
人に見てもらう勇気が出たら、お金を稼ぐことも考えよう
ここまではおさらい的なことです。しみじみと、時代が変わった感じがするよねという話です。
noteに1万字前後の短編小説を投稿しようと決めてまだ2週間くらいなんだけど、僕も頑張ればそのうち自分の書いた小説がお金になるんじゃないだろうかという淡い希望があります。
投稿しようと思ったのは、小説を書くという行為にプライドが芽生えてきたからで、実はnoteリリース直後にもアカウントを取ったんだけど、その頃には短編小説が書けなかった(最後まで書けたことがなかった)し、公開する勇気もありませんでした。
でもようやく、note用に短編小説を書こう、人様に見てもらおうという気持ちになった。
そんで、noteに投稿するからには作品に価値を与えたいという気持ち、作家として世の中に存在したいという気持ちになったので、その気持ちに素直になって、短編小説でお金を稼ぐという方法についても考えようと思いました。
しかも確かサービスリリース直後にはなかった「クリエイターをサポート」というボタンからは応援のお金が振り込めることになっていて、作品を買わなくても、直接支援してもらえる仕組みがあることを知りました。クリエイターに優しい時代だなあと思う。
創作活動が丸ごと無駄になる可能性が減ったのが嬉しい
しかるべき新人賞に応募して、プロの小説家になって、ベストセラーをはじき出すという作家像はやはりかっこいいものがあります。
その道を目指しながら、noteのようなところでお金を稼ぐという方法も取れるのが現代の面白いところだと思います。
ちなみに、noteノートってうるさいけど、小説の投稿サイトは昔からたくさんあるし、電子書籍化サービスみたいなのもあるからこれだけが道と言ってるわけではありません。
僕はnoteを使っているのでnoteのはなしをしています。
とにかく時代が変わって、表現者を名乗るハードルが下がって、人に見てもらう機会が増えて、小さなマーケットが増えたことで、その環境が自分に適してさえいれば、生き残る可能性があるところに希望があるよねということ。
創作活動ってひと昔前みたいに、現実を見れないぽやんぽやんがいたずらに時間を浪費するような、自分が何と言っても、世間から見て成功しなければ人生の無駄と人に言われるような可能性は少なくなった。これが僕は嬉しい。
さて、noteで少しでもお金を稼ぐために、どんなことができるでしょう。
お金を稼ぐというか、お金を出しても良いよと言ってくれるようなファンになってもらうためにできることはなんでしょう。
そんなことを考えました。
100人のファンに出会えるかもしれないロマン
100人、ファンができれば良いなと思いました。
僕の作品集に、たとえば500円の値段をつけるとする。短編小説10本で500円、一本50円。適切な価格なのかどうかは置いといて、そのように値付けするとする。
それにお金を出しても良いよという方が、この世のどこかに100人。
100人ならいないことなさそう。100人ってそんなに多い数ではありませんよね。
毎月短編小説を10本ずつ書いて、その100人が毎月僕に500円使ってくれる。
それで僕は、毎月小説で5万円稼げることになる。
僕はベストセラーを書こうとするのではなく、毎月応援してくれる100人の胸に突き刺さるものを書く努力をすれば良い。
もちろん机上の空論です。
でもこういう目標が立てられることが良いじゃないですか。
プロの大作家だろうが特定の誰か一人に読ませることを考えて書くのかもしれないから結局努力量や質は同じなのかもしれないけど、本当に100人に届く声で良いのだという風に小説を書いて、それで500円が貰えるかもしれないというロマンみたいなものがある。
100人の心に刺さり、100人の心が自分に刺さる創作活動を考える
もっと具体的に考えましょう。
100人という数字は大して大きくはないけど、自分の小説にお金を払っても良いと言ってくれる100人のことを考えると、まあいないだろうなと思います。想像できません。
だからまず、それはどんな100人なのかということをよく考える。
それから、対価を受け取るというだけではなく、応援してもらうというベクトルで考える。
つまり、僕は自分の小説で、どんな100人の人生に入場させてもらえるかを考える。どんな100人の数時間を満足させられるだろうということを考える。どんな人に、もっと頑張ってって言ってもらえるかを考える。
普通にマーケティングじゃないかって話だけど、少なくともnoteのようなところにいる創作者は不特定多数のお客様のニーズに応えるんじゃなくて、自分の書きたいものを認めてくれる100人を探すべきだと思う。
ゴリゴリとしたマーケティング的な発想は大事なんだろうけど、感覚としては、「お金もらえなくても書けるものじゃないと書きません」みたいなプライドと情熱を犠牲にするようでは、逆説的な話だけど、多分その100人に応援してもらえないだろう。
額面としての5万円ではなく、自分が求めた100人にもらう5万円だから嬉しいということはあるでしょう。
レイモンド・カーヴァ―ファンに認められる短編小説を書くことが目標
じゃあ僕はどんな100人にどんな小説で喜んでもらいたいのか。どんな100人に応援されたいのか。
僕が短編小説を書く上で、めちゃくちゃ影響を受けてて、憧れている作家が何人かいます。
レイモンド・カーヴァ―、シオドア・スタージョン、アリス・マンロー。国内作家では安倍公房、江戸川乱歩、皆川博子。
この人たちの小説を読んだとき、感動して、無性にカッコイイ!って思って、憧れました。
だから僕は、少なからずこの憧れの作家さんたちを意識して書いています。
純粋な僕のファンは限りなくゼロだと思うけど、例えばレイモンド・カーヴァ―とか安倍公房のファンはもうびっくりするくらいいるはず。それこそ万の単位でいるんじゃないか。
僕は、僕が憧れる作家さんのファンの人に認められたい。そうすれば、僕は僕の書きたいもので人に認められたということとほぼイコールになるから。
こういう風に言えば、例えばレイモンド・カーヴァ―ファンの人は、どれどれ、って思ってくれるかもしれない。レイモンド・カーヴァ―の短編と比べて読んでくれるかもしれない。
ある人は安倍公房と比べてくれるかも。
僕はそういう人達に向けて、何回も何回も書く。
僕が好きな作家のことが好きな人に、僕の作品も好きだと言われたら最高だと思う。万の単位でいるレイモンド・カーヴァ―や安倍公房ファンの中に、寄せ集めたら100人くらいはそう言ってくれる人がいるかも。
それである程度認められたら、いつか僕の作品にもお金を払ってくれるかもしれない。認めたワケじゃないけどって感じで、ツンデレ気味に応援してくれる人もいるかもしれない。
だから僕はレイモンド・カーヴァ―のこの作品が好きだとか、安倍公房のこの作品が、皆川博子作品のこういうところがとやかましく言って、こういう作品を書きたいんだっていう発信をする。それも現代のマーケティングの一環なんだろう。
情熱的な好きを発信するということが意味を持つ時代になったんだろう。
こういう風に考えると、好きなものがあるって素晴らしい。そういうものを、不特定多数の人に好きだと言える場所があるのは素晴らしい。
憧れを追いかけて、オリジナルの自分を見てもらう
とは言え、レイモンド・カーヴァ―や安倍公房のような作品に並ぶのは無理です。
アリス・マンロー?皆川博子?絶対無理。
憧れていて、こういう人たちみたいな作品が書きたいと思うけど、同じものは書けない。実力的にもそうだけど、違う人間だから同じものは書けないということでもある。
それに、憧れている作家に並ぶことを目標としてはダメでしょう。
僕は僕の好きな人たちの作品を読んで、感動して、その上で今この時代のこの場所に生きる僕だけが書けるものを模索しなければならない。noteみたいな現代のサービスで書けることや、この時代に生きる20代男性だから書けることを書かなければならない。
青は藍より出でて藍より青くならなきゃ。
同じ存在にはなれないけど、それは単純に世の中に同じ人は二人いないということであって、僕はまだ誰かを模倣するしかないけど、何度も何度も書きたいことを書いて、そのうち僕のオリジナルができたときに、僕の作品が好きな人ができたら良いなと思う。
でもまずは僕が憧れる作家さんに少しでも近づくこと。そういう意志を人に伝えて、認知されて、どれどれこいつ大口叩いてるけどどんなもんなのって思われること、全然ダメじゃねえかって言われても淡々と情熱とプライドを持って書き続けて、すこーしでも成長し続けること。
あ、画像つけたりとかそういう工夫も必要ですね。あと、webで1万字っていうのは長いんだけど、それを長く感じさせないような話を作るっていうのも工夫しなきゃですね。
そういう試行錯誤の姿を見せられることもwebの特性だと思うから、応援してもらえるように今日も明日も楽しく静かに情熱を持ってガリガリと書くのだ。
例えばレイモンド・カーヴァ―ファンのうち100人が僕の短編小説のファンになったら(完)
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