夏目漱石が至った境地「則天去私」は客観性を保ちフラットな思考をするための創作論

夏目漱石の思想にまつわる有名な言葉に「自己本位」と「則天去私」というものがあります。

特に「則天去私」が有名なんじゃないかと思うんだけど、これは確か中学だか高校だかで、「晩年の漱石の思想であり、長い作家生活の末、遂に漱石はこの域に達した」みたいな教わり方をした記憶があります。

天に則り私を去る。

エゴイズムからの脱却、自由自在の境地とかって言われることもあるようだから、「自己本位」と対をなす言葉のように捉えられるのでしょう。

有名な作家さんが自我の醜さに悩んで悩んで達した悟りの境地である、立派なもんだ!

と言えばそれらしくはあるけど、これでは「我の強い個人が私欲を捨て、天命に従って生きるようになった」というような、ありきたりの成長、もしくは極度に一般化されたチープな訓戒に聞こえます。

それが誤りというのは大げさかもしれないけれど、少なくとも夏目漱石は「自己本位」から「則天去私」に至ったのではなく、「自己本位」と「則天去私」という相反した思想を同時に持ち合わせていたという考え方に従い、あくまでも文豪・夏目漱石の創作論として、これらの言葉を捕らえたいと思います。

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創作論としての「則天去私」

「自己本位」と「則天去私」-漱石における自己への態度-(一)

という論文を参考にして書くので、もちろん本格的に夏目漱石の思想について知りたいと思った方はそちらを精読していただくのが賢明です。

この記事はあくまで、僕の都合の良いように解釈し、手近な創作論として漱石の思想を弄りまわすだけの劣化版。ブログコンテンツの一材料。

漱石の創作がカルピスの原液だとしたら、この記事は少々薄めすぎたカルピスだと考えてくださると分かりやすいと思います。

薄めたカルピスが飲みやすいように、この記事も読みやすくなるかもしれません。そして少々薄いカルピスを好む人が一定数いるように、論文のような濃厚なものよりはこの軽い記事の方が好ましいという方もいるかもしれません。

テーマがテーマなので若干小難しくはなるかもしれませんが、僕の実力ではゴリゴリと学術的なものは書けません。

ここで僕が言いたいのは単純で「物事を中立的に観察する」ということは創作を行う上でとても大事だよねということ。

「則天去私」はその方法である、ということです。

則天去私は矛盾を飲み込む

「自己本位」と「則天去私」は、はじめにも少し言いましたが、互いに相反する思想に見えるのではないでしょうか。

正反対で、真逆で、表裏を成すと言っても言い過ぎでない程には反対の思想だけれど、だからこそコインの裏表のように密接した関係と言うことができます。

密接だから、漱石の思想は「自己本位」から「則天去私」に変わったのではなく、もしくは「自己本位」の思想を捨て「則天去私」の思想に乗り換えたのではなく、両極端の思想を同時に眺め続けるという境地のことを言っているのです。

それはそれこそコインの裏表を同時に眺めることができないことを考えれば分かる通り、非常に難しいこと。

ただし一面を眺めながら鏡の前に立ち、鏡面に映った裏面と自己を眺めるということはできるでしょう。

屁理屈とか頓智のレベルではありますが、この二つの言葉を同時に捉えるにはそんな風に矛盾を飲み込む発想が大事だと思われます。

そして創作には、なによりこの類の物の見方が重要なのではないでしょうか。

自己本位と則天去私はコインの裏表

世の中の現象に良しあしの判断をするのは、「自己」の部分です。

本当は良いも悪いもなく役割の違いがあるだけなに、黒いものを悪、白いものを純粋と判断したり、夜を苦痛、朝を希望と捉えたり、僕たちは自分の都合で物事を見たいように見るようにできている。

フラットで客観的な見方ができる人になりたい。朝と夜は朝と夜

日々、自分の感性に従って見るものを選んでいると言っても良いでしょう。

それはコインの裏と表どちらを見るか、そしてコインのどちらを裏として見て、どちらを表として見るかという話しそのものでもあります。

一方、「自己」以外の視点というものが現実の世の中には当然あります。

自分はコインの表側を見ていると思っているし、こちらがコインの表だと思っているけれど、反対側には同様に、「私はコインの表側を見ている」と思っている人がいるかもしれない。

本来コインに裏も表も別に決まっていなくて、自分が初めに見た面が表だと感じている人ばかりなのだとしたら、このような矛盾が起きてもおかしくありません。というか矛盾でもなんでもありません。

そこで、この一見矛盾に見えるできごとを説明するために、「自己」というものを取り去って、一歩引いて、まるで他人事のようにコインと、コインを見ている自分を眺めれば、「コインには二面あって、それぞれの方向から見ている人がいる」という単純な構造を知ることができる。

繰り返しになりますが、「則天去私」はこのように矛盾を飲み込むための思想なのです。

自己を表現するために自己を捨てる

ではこの話と創作との間にどんな関係があるのか。

このブログでは、いつか、創作において「自分」は必要ないというようなことを書きました。邪魔になるだけだと。

なぜなら、創作が目指すのは普遍性だと思うからです。

どこから見ても当てはまること。誰からみても同じであること。その完全性がひいては「美しさ」につながるのではないか。

上のコインの例のように、コインを見て、見ている側がそれぞれ異なるという状況は普遍的なことで何もおかしなことではありません。一方表か裏かを決めつけるのはそれぞれの特殊な状況です。

他人に興味のない僕たち人間が、他人事をまるで自分のことのように感じるためには、つまり興味を持ってもらうためには普遍性や般化が必要で、創作者は具体と抽象を使い分けて、一歩離れたところからの視点を得ることで巧みに普遍性を作り出す。

しかし、「自分を消せっていうなら、じゃあロボットが創作活動をすれば良いってこと?」って言われるかもしれません。だけどそうじゃありません。

これではただ僕たち人間が「自己」を取り去ったというより放棄しただけですから、夏目漱石の「則天去私」の思想とは違うことが分かります。

そんな諦観とか悟りとは全く違う、人間とは何か?という問いのための、むしろより深く悩むための思想と言えます。

漱石は、「自己を表現するために自己を捨てる」という方法を目指したのです。

創作者は中立な観察者という役割を負う

このように話を進めると、コインの裏表が切り離せないように、「自己本位」と「則天去私」がセットの思想だということが分かると思います。

これらの思想に矛盾があると感じる方もいるかもしれませんが、それは文字面だけを見たときの話しであります。それに、矛盾するものは同時に存在できないということもないでしょう。

あらゆる物の見方から、「今目の前にある物を選んで見ている自分」を眺めることで、自らのことをより深く知ることができる。

自分を含んだリアルな状況から一歩離れて(去私)、天の瞳のように俯瞰して眺める(則天)ことで、自らの役割を知る。「則天去私」は「自己本位」の極みなのです。

そう見ると、人間には良いも悪いも正解も不正解もなく、ただ与えられた役割があり、その人がそこで何を感じるかということも結局は状況に限定され、半ば強制的に限定されたものであることが分かる。

すると、自分だけの真実や、モノの見方、感じ方と言ったものは、自分が実生活に存在する故の執着、つまりエゴであって、実はそれほどこだわるものではないと気づきます。

自分を含め、環境そのものを俯瞰することで、物事を評価するのではなく役割で捉える。

夏目漱石なので創作と言っても物語を想定してはいますが、物語に限らずあらゆる創作において、人間を知ること、なにより自分を知ることはとても大事なはずです。

何故なら、創作者とは中立な観察者であり、監督であり、役割をコントロールし普遍を伝えるための人間なのですから。

そういう役割を負う自分を意識することから、創作は始まるのではないかなと思います。

夏目漱石が至った境地「則天去私」は客観性を保ちフラットな思考をするための創作論(完)

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