「好き」に囚われそうになったら

「日本人はあまり直接的な愛情表現をしない」という話を受けて、いつか僕の友人が言っていたことをふと思い出しました。

曰く、日本語では「愛」という言葉の捉え方が少々雑なのではないか。

例えば僕らは家族や恋人に、「愛してる」なんて映画で見る欧米人のように頻繁に言ったりしない。そんな大げさな言葉で伝えなくても良いと思ってる。

でも友人は、そうやって大げさな言葉だと思っている点が日本語の「愛」の不自由なところなんじゃないか、と言います。

日本人は「愛」を伝えればそっくりそのまま掛け値なしの「愛」を受け取ってしまうけれど、「love」をもっとラフに使う文化では、「愛」の幅はもっと広く、それこそ文脈や表情やトーンによって、文字から受け取る概念以上のものや概念以下のものを表現できているのではないか。

つまりその他の多くの言葉と同じように、「愛」という言葉ももっとファジーなもので。日本語の場合たまたま、この「愛」という言葉から受け取る印象が硬直的すぎるというだけで。日本人が「愛」を口にするほど英語では「love」を、強く絶対的な言葉として使っていないのではないか。

この話をしたのは大学2年生のとき。焼き鳥を食べながらだったことをよく覚えています。

10年近く経ったというのによく覚えているのだから、僕の中でこのときの会話はとても印象的なことで、思えばこのときに「言葉」の見る目が変わった気がします。

ああ、言葉って共通じゃないものを無理やり共通にするための道具なんだ。

人それぞれ自分の言葉を持っていて、それは独特なものだけど、おそらく自分以外の人のために少々窮屈な入れ物にいれるそんな作業を繰り返して、喋ったり書いたりしてるんだ。

日本語の「愛」と英語の「love」の間に生じるニュアンスの齟齬みたいなものの、もっともっと小さくて繊細なことが、同じ言語同士でも起こる。

これは間違いないというか、当然のことだよなと思えば、言葉に対する信頼は揺らぎ、自分の言語感覚の不確かさが怖くなったりもする。

スポンサーリンク
スポンサードリンク

「好き」と「愛」の互換性

僕が二十歳くらいの一昔前と比べて、日本でも「愛」という言葉がわりとラフに使われるようになってきたような気がします。

言語感覚の欧米化と言えばしっくりするような気がするけど、愛を愛と表現することにそれほど抵抗がなくなってきたというような感じ。

同時に感じるのは、「好き」という言葉と「愛」という言葉との間にある互換性です。

好きなことして生きていく、好きな人と仕事をする、好きを大事にする、好きなことしかしない決断、好きを伸ばすことが生存戦略になる。

ネット上で特に頻繁に目にする「好き」という概念と感情。

そしてそういう概念を掘り下げたときに仕方なく出てくるのが「愛」という言葉で、好きなことに対して自然に芽生える感情や、自然にかける手間みたいなものを、僕らは愛と見なして、ときにそれが執着や嫉妬と言った感情を引き起こしても、愛の名のもとに、もしくは「好き」の名のもとに正当化される雰囲気。

つまり、日本の文化において「愛」は「好き」と言い換えることで市民権を得たような感じがあって、好きという言葉を通して愛が叫ばれているような気がしている。あくまで個人的な観測による感覚だけど。

宇多田ヒカルさんの「Flavor of life」の中に「愛してるよよりも大好きの方が君らしいんじゃない?」って歌詞があってよく思い出すのですが、うんうんそんな感じ、僕ららしい、日本語らしい言語感覚にフィットするのは「愛」よりも「好き」で、どっちが上とかそんなんじゃなくて、ただしっくりくる。

そこに、そういう気持ちを恥ずかしげもなく表現する欧米的な振る舞いの輸入か、もしくはネット上のポジション取りのための戦略か、そのどちらもか、が合わさって、現代の労働観や倫理観が作られていると思う。

「好き」の檻の囚われる

それで、これは僕が自分自身に感じることなんだけど、「好き」を手がかりに人生を作っていこうと考えたとき、「好き」に囚われてしまいそうになって怖い。

自分で自分の好きなものやことくらい分かってるはずなんだけど、それこそ広大なネットの世界をちょっとのぞいてみれば、自分の好きなんて甘々で、全然抜きんでていないことが分かる。

あーとてもこの人みたいに「好き」とは言えないなあ。じゃあ僕の本当に好きなものやことってなんなんだろう?んーなんもないなあ。自分って空っぽなのかなあ、みたいに考えちゃう。

本当にそれが好きなら一日15時間くらいぶっ続けでやれるのが普通で、それができないってことはたぶんそんなに好きじゃないんだよって、別に誰かに言われるわけじゃないのに言われてる気になったりする。

でもそれって、「本当に子どもを愛してるならどんな道を選んでも応援してあげるのが普通」とか、「どんなに腹が立っても子どもを本気で愛してたら叩いたりは絶対できないはず」とか言われてるのと似てて、そんなもんときと場合によるしこっちの愛とそっちの愛はそもそも違うものだし、いっしょくたにして一般化して概念を無理やり固定化するようなことはやめてくれ、とも言いたくなる。

好きと愛に互換性を見出しラフに使う僕らは、照れ隠しで「愛してる」の代わりに「好き」と口に出しておきながら、厳格さには「愛」のそれを求めて、「愛」に対する直接的で、大げさな感覚を脱しきれてない状態だから「好き」にもナチュラルに「大げさ感」が実装される。

だけど都合の良いところは「好き」のままで、「愛」にあるような憎しみや臆病さや執着や醜さがあってはいけないとも思う。

好きなことをしている自分は輝いてなきゃいけなくて、好きなことをしている時間はすべてを忘れるほど楽しくて、周りも明るくさせるようなものじゃなきゃいけないって思う。

「好き」に当てはまらない感覚

僕らの感覚はそれほど単純ではないし、僕らが使う言葉はそれほど均一でも共通でもない。

そもそもオリジナルなはずの僕らが、オリジナルの人生を求めて純粋な「好き」を頼りに生きていこうというのに、「好き」という言葉に付け加えられた社会性の檻に捉えられて自らを積極的に汎化しようとするのは二重にも三重にも不本意なことだ。

たいていいつも何が言いたいのかわからないままにこのブログの記事は書き始めるんだけど、つまりこのブログは僕自身のカウンセリングみたいなものなんだけど、今回も例によって結局僕は自分が何を言いたいのか分からない。

だけどこうしてここまで書くことで自問自答みたいなことができて、多少は客観的な視点も芽生えるもので、その微かに客観的な視点から見ると、僕はきっとどこかで窮屈さを感じたのだと思います。

好きなことをして生きていけたり、好きを人生の軸に据えるような生き方は素晴らしいけれど、そのためには「好き」であることを人に知られる必要があったり、人より「好き」でなければならなかったり、一点の曇りもない「好き」じゃなきゃ認められないと思ったり。

「好き」に囚われて、「好き」ってなんだろう?みたいに考えることが多くなって、「好き」ならばこうなはずだとか、こうじゃないから「好き」とは言えないとか、そういう言葉の硬直が見られるようになって、モヤモヤした僕は、大学2年生の頃、日本人の言う「愛」は融通が利かず、日本人の言う「愛」は不自由だという視点を与えてくれた友人の話を思い出した。

何かがはっきり好きで、これが好きなんだと言えることはもちろん素晴らしいと思うけれど、同時に、「好き」という言葉に当てはまらなそうな感覚をためつすがめつする一手間も、それこそ書くことが好きな立場として、愛しく思う。

スポンサーリンク
スポンサードリンク