感性が衰えているような気がするとか、感性を研ぎ澄ませたい、みたいな欲求が芽生えることはありませんか。
僕はある。研ぎ澄まされた感性を持って、優れた作品を作りたいという欲求。
だいたい小説を書くときに、自分の感性を疑うことになる。
自分は平凡で、真新しいものも輝かしいものも探し出すことができない、つまらない比喩しか思い浮かばない、重さも鋭さもない、みたいに追い込んでしまったとき、感性が欲しいと思う。
それでいろいろ悩み考えていたのですが、結果「感性がある」とか「感性がゆたか」っていうのは状態のことであって、素質や資質のことではないのではないのではないかと思い至りました。
じゃあその状態とは何なのかっていうと「どれだけ集中することができるか」ってことだろうと。
歳を取るごとに感性が鈍くなるは本当か?
歳を取るごとに感性が鈍くなったなと思うことが増えました。
いや昔は「感性鋭いな自分」と思っていたというわけではないですけど、今と比べたら昔の方がいろいろと感じることが多かったような気がする。
良くも悪くも傷つくこととか打ちのめされることが多かったんじゃないか。
それが最近ではあまりない。良くも悪くもフラットで安定していると思う。
あまり日常で傷ついたり感じ入ったりすることがないから、創作の熱が湧きにくいのだ、とも思う。
じゃあそれはどうしてだと考えていくと、大人になって余裕が出てきたからか?と思った。端的に言えば、精神的に強くなったのか?ということ。
でもそんなわけない。僕のメンタルはいつも弱い。
だからそうじゃなくって、大人になって余裕がなくなったからなんじゃないか。
考えるべき煩雑なことが多すぎて、生活に関わる卑近な心配事が多すぎて、物事を深く考えたり、物事をよく観察したり、物事に集中する時間が減ったからじゃないかと思う。
小説が読めない時期、空気や星に関心がなくなるとき
余裕がないのが悪だ、と思い至った理由には、こんな実感があるからです。
例えば小説が読めない時期がある。
文字が頭に入ってこず、世界観に没入できない。
小説の豊かさがまったく不要のものになってしまうことがあるのです。
そんなときはたいていつまらない心配事がある。
お金がないとか、そういうこと。
誰かと会わなきゃならないとき、空気のにおいにも星空にも興味がなくなる。
あの人に会って自分が見下されはしないだろうかとか、批判されたりしないだろうかというような、つまらない自分の身に関わることを考えるともなく考えていて、世界に対する集中力が削がれる状態になることがよくある。
精神的な防御反応が出て、身体的にも思想的にも目先のことしか考えられないようなとき、僕の感性は極端に鈍っている。
小説を読むのも書くのも難しいし、夜のお散歩だって赴く気になれない。
悪い状況です。割といまはこんな感じ。
集中できる余裕
少なくとも僕の場合は、集中してよく見て、よく考えるために余裕がなきゃいけないと思います。
感性を作るのは余裕。あくまで僕はだけど。
小さい頃は小さい頃でいろいろ余裕はなかったんだろうけど、今に比べたら全然余裕。
自信がすごくあったし、将来はバラ色だったし、毎日楽しかった。心配事なんかなかったと言っても良い。
だから好きなものに集中できたし、インプットもアウトプットも充実感があった。
小説に目を向けると、小説ってのは、ついネガティブな側面というか、傷とか、そういうことに目を向けたくなってしまうし、実際そういう傷ついてしまう繊細さが必要な要素なのだと思っていました。
だけど基本がポジティブだったからこそそういう面に過剰に目を向けてしまっただけで、実は僕が何かを書くのに必要なものってそういう敏感なセンサーではなくて、集中できる余裕なんじゃないか。
その余裕をどうやって手に入れるのかは分からないけど、感性を作るのは余裕なんじゃないか、ということを思いついたのは良かったと思う。
とりあえず差し当たっては誰かが大金をくれたら解決するかもしれないな。
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