まちづくりの毒と薬のバランス

まちづくりを考える

密かに「バランスシリーズ」を書いています。

シリーズだからって連なっているわけではないけれど、とにかく僕は今バランスについて考えがちなのです。

このブログを書き始めた初期の頃から考えていたことの一つに、まちづくりにおける毒と薬のバランスがあります。

まちづくりとか、地域活性化とか、コミュニティとか、そういうワードに付随する「正しい気配」が苦手でした。

「良いまち」を作らなければならないまちづくりの雰囲気が苦手。

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学級会的なまちづくりは退屈をつくる

「まちづくり」は、はっきりと「善」や「良」を目指すものだと思います。善いもの、良いものを目指すことを前提に話が進められます。

親とか先生とかに「こういうことしてます!」「こういうこと考えてます!」って言って、「それは素晴らしいね、頑張って」と言われることしかできない雰囲気です。

そういう社会の漠然とした理性、漠然とした良心、漠然とした倫理に適うことの中で優れたことをしなければならない。

地域おこしやまちづくりという文脈に感じる「学級会」的な雰囲気が僕は大変苦手です。

みんなで善を目指していながら、毒にも薬にもならないものを生み出す空気を作るからです。誰も不快にならず、誰もが理解できて、誰もが是とする事柄は有体に言って無難なだけで、「善」にも「良」にもならないということを僕らは知っているのに、全体を尊重するという建前のもと、間違ったことをしたくないという臆病を無意識に隠ぺいしていると思います。

それは退屈で、誰も傷つけない代わりに誰のことも救わないのではないでしょうか。

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まちづくりにおける毒とはなにか

では悪いものを目指せと言うのか、毒を作れと言うのかという話になるかもしれません。

有体に言えばその通りだなのですが、重要なのはバランスだとおもいます。

例えば犯罪に手を染めるとか、誰かを故意に傷つけるというようなことでは、悪に偏り過ぎていて、普通にダメです。

ただ、多くが理解できない(ゆえに不快な)こととか、誰かを遠ざける(ゆえに見つけにくい)とか、ときに痛みを伴うことでも恐れずに為すことを大事にしたい。

もちろんこれは個人的な感覚で言っていて、この意見の正しさを僕は求めません。誰かに共感して欲しい気持ちはあるけれど、そういう気持ちを抱きすぎることは毒性と薬効を薄めることに繋がると思うからです。

強く分かってくれる人と、学級会的なまちづくりと言われて不快を感じる人がいれば良い。

毒と薬は紙一重で、毒になるか薬になるかはタイミングとバランスにかかっている

なんでも過ぎれば毒になるし、適量であれば薬となります。

善と悪があるのではなく、それぞれにとって、毒になることもあれば薬になることもある。それはタイミングと、バランスにかかってる。

なのに、どんな物事もマイルドに誰が口にしても安全なように薄めてしまっては毒にも薬にもならない。毒にも薬にもならないってこの記事で何回も書いてるな。

文学を読んで救われることもあれば、絶望することもあります。音楽を聞いて癒えることもあれば、ひどく動揺することもあります。

僕は文芸を軸にまちづくりをしています。優れた小説がそうであるように、自分が及ぶ範囲では、ちゃんと劇薬になったり万能薬になったりする価値を作りたいと考えます。

 

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