一部を排除するような料金設定と際立ったスタイルの正誤について

ゲストハウス

民泊をはじめて、来てくれた方に有料でお部屋を貸すことにしたのだけど、一泊一人6000円という基本設定にしています。

ただし、創作のため、研究のために部屋を利用する場合、一週間で15,000円のような応援価格で承ります。

それは僕のまちづくりのためであり、文化を作りたいという気持ちがあるからです。

若く、これからを創る立場にある人たちが、安価に刺激を受け取れる場所を作っていきたいし、来てくれるだけで僕のまちづくりに貢献することになるのだからと考えた価格です。

例えば学生さんなんかが出せる額で、そこで時間を過ごしても良いかなと思えるような価格設定にしたかった。

また、朝日町にゆかりのある方。例えばこちらに実家があり、ちょっと家の片づけとか、ご両親の身の回りのお世話とかしなければならないというとき。

しかし実家に家族で身を寄せるには、かえって気を使わせてしまうし、お互いに疲労が増してしまうという理由でなかなかするべきことが進まない、ということがあると思う。

そんなとき、僕の家を利用してもらう、みたいな使い方に貢献できればと思うので、やはり応援価格で承ります。

一方、それ以外での利用の方は割高な宿泊料となってしまいます。食事もついてないし、ベッドやお風呂が立派なわけでもない。僕ら夫婦が住んでいるので一軒家を独り占めできるわけでもないし。それでも納得するなら歓迎しますというところです。

これって差別というか、暗に一部の人を排除するやり方やん?って自分で思うのですが、いやそれは法的に問題があるよ、みたいな話にならない限りこれでいこうと思います。

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区別や制限は多様性の否定になる?

うちなる自分に言われるのは、それって差別じゃないの、人によって制限するのって感じ悪くない?というようなことです。

仮にもサービスなんだから、千客万来で臨むべきだろうという声もどこからか聞こえてくる。

また、多様性がどうこうという話もこのブログではよくしていて、そういう観点から見ても一部に開くみたいなやり方は矛盾してるんじゃないの?という疑問もある。

残念ながら、「多様性」という言葉について、考えたは考えたけれど、まだ答えは出ていません。

ただ、多様性の尊重と言うとしばしばむやみな肯定と無条件の平等、もしくは「博愛」と意味が重なり勝ちなんだけど、そんな単純な話じゃないんだろうな、というところまでは考えた。

「多様性」は他人を認めるための言葉ではなく、「自分が間違っている可能性」を知るための言葉だと思う

上記の記事でいただいたコメントで「血の通った多様性」という言葉を与えてくれた人がいたけれど、多様性を云々するとき、これこそが多様性だ!多様性とはこういうことだ!と盲目的に考えてしまうことは味気ないということは分かりました。

その結果これでいこうと考えたのだから、うまく説明はできないけど、これで良いと感じる自分の気分は尊重しておこうと思います。

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多様なものを多用なままにしておく工夫

多様なものを多様なままにしておく工夫

という記事で我ながら良いことを書いてました。

僕らが多様なままでいるためにはどうすれば良いか。

それは、分かんないけどこのまま突き進もうっていう勇気を持つことなんじゃないかなと思う。そして自分は今この道を信じていて、この道を行こうと思ってるんだって周りに言っておくことだと思う。

そしたら、そうか、お前はそっちなのね、俺はこっち行くから、なんかあったらまた連絡してな、連絡なかったら適当なときに声かけ合おうなみたいな、人間らしいコミュニケーション能力で以てみんな生き延びられるようになると思う。

多分こういうものを作りたいんだと思う。まちづくりとかコミュニティを考えたとき、もしくはこれからの「生き方」を考えたとき。

お前そっち?おれこっち。みたいな。

だけどそれは断絶じゃないし対立でもなくて、あとでそっちのルートどうだった?みたいなやりとりができるような関係。

森の姿を考えたとき、背の高い木と、コケ類と、蔦植物とではそれぞれスタイルが違ってだけど一緒に森を作ってるように、それぞれのスタイルが際立ったままで一つの町や地域ができれば良いなと考えている。

 

 

 

 

 

 

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