『ドリアン・グレイの肖像』(新潮文庫 福田恆在=訳)には、オスカー・ワイルドによる「序文」が載っていて、そこに書いてある芸術論の存在を僕は、このブログを見てくれている人にはぜひ知ってもらいたいと思っています。
全文載せたいところだけどそれなりの量になるし、引用文だけでブログ記事にするのは抵抗があるので(著作権も気になる)ところどころかいつまんで、その「かっこよさ」をご紹介したい。
全文気になる方はこちらのブログを参照すると良いと思います。あ、これは原典をご自分で訳したものを載せているので著作権の問題はありません。
かいつまんでしまうと本来の意図とはずれてしまうかもしれませんが、恣意的な解釈になることを恐れることなく、自分勝手に感動した部分を共有できればと思います。
オスカー・ワイルドの名言と創作論
そもそも名言が多いオスカー・ワイルド。
好きな名言の中に
「私たちは、不必要なものだけが必需品である時代に生きている。」
があって、僕は現代はさらにその傾向が加速しているなと思ってます。極端なことを言えば「仕事」ですら、不必要極まりないからこそ必需品であるかのように扱われているのだろう。
余談から始まってしまったけれど、『ドリアン・グレイの肖像』(福田恆存訳)の序文に載っている芸術論の話につながる予定ですのでぜひ頭の隅に入れておいてほしい。
冒頭はこうです。
「芸術家とは、美なるものの創造者である。」
続いて
「芸術を顕し、芸術家を覆い隠すことが芸術の目標である」
以下、全体で一つというわけではなく、一文一文が創作論の核を持っていると思うので、バラバラに一文ずつ感銘を受けた部分を引用させてもらいます。
「芸術家たるものは道徳的な共感をしない。芸術家の道徳的共感は赦すべからざるスタイル上のマンネリズムである。」
「芸術家たるものはけっして病的ではない。芸術家はあらゆることを表現しうるのだ。」
「思想も言語も芸術家にとっては芸術の道具にほかならぬ。」
「善も悪も芸術家にとっては芸術の素材にすぎぬ。」
我田引水のようで申し訳ないけれど、こういうのを読んで
フラットで客観的な見方ができる人になりたい。朝は朝、夜は夜。晴れは晴れ、曇りは曇り
というような記事もかつて書きました。
そのためのヒントとなる考え方を「則天去私」に求めたのが以下の記事です。
夏目漱石が至った境地「則天去私」は客観性を保ちフラットな思考をするための創作論
だけどやっぱり現代において、パーソナリティと創作物を分けて考えるのは難しいと思う。少なくとも人間的に賛美される人の、善を基本にした創作物でなければ、受け入れられないのが実際のところではないでしょうか。
もしかしたらそれはいつの時代もそうだったのかもしれない。
だけど現代は特に、芸術とパーソナリティの関係が密接になっているのではないかと思う。
これはどういうことなのかというと、人の創作能力、クリエイターとしての能力そのものが賛美される時代になったということだろう。
「有用なものを創ることは、その創作者がそのものを賛美しないかぎりにおいて赦される。無用なものを創ることは、本人がそれを熱烈に賛美するかぎりにおいてのみ赦される。」
この名文もなんだか僕のこころには響きます。
この現象はそこかしこに散見されると思うからです。
少なくとも有用なもの(社会的に価値のあるもの)を創る人は「謙虚」の美徳を持っていて初めて受け入れられるように見えるし、誰もが無用と認めるものを創る人は、自分の創作に偏執的な「愛」を持っていることが存在条件のように思われる。
「すべて芸術はまったく無用である。」
結局はこういう話になる。
いずれにせよ僕らは仲良く「創作」の時代に入っていくと思う。
なぜならそれは無用であって、不必要であるが故に、また、不必要であればあるほど何物にも代えがたい必需品になるから。
ゴリゴリに進んだ文明の中にあってその豊かさを上手く享受できない僕らが求めるのは、自らの手で作り出すモノであり、自らの手で作り出す人生だろう。それを切り離して考えるのは難しい。
しかし、必需品を必需品だと言えばやはり僕らは貧しくなる。僕らは必要で有用な人間になろうとすればするほど虚しくなって、なぜか無用を突き付けられる。
僕らは自分が創り出すものをただ偏執的に愛し、大いなる無駄を、不必要な人生を、現代人らしく、謳歌しなければ。
『ドリアン・グレイの肖像』―オスカー・ワイルドの芸術論について(完)
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