どう生きるのが正解なのか分からない時代の子どもの教育を考える。

学びと教育に関する愚考

我が家に子どもが生まれると同時に湧いてきた教育への果てしない不安と興味。

自分たちは子どもに何を教えるべきか、子どものために何を学ぶべきか。何を知っておくべきなのか。

もちろん、満足な教育を与えるためにはいくらくらいのお金が必要なのか、という問題も。

それらのことを、今後しばらく真剣に考えてみようと思います。

この記事はその序文のようなものです。

非常に大きい問題。一人の人間の人生を背負うのだから、真剣に考えて考えすぎということはないととりあえず思いつめて、考えられるだけ考えます。

僕と同じように、この変化が激しい時代の子どもの教育に不安を抱いている方の参考になれば良いなと思いながら書きます。

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子どもの教育について、もっとも大きい視野から考え始めよう

親の子に対する願いは「幸せになってほしい」の一点のみ、ですよね極端に言うと。

じゃあ幸せってなんだ?

そういうところから始めて、そのためにはどんなことを教えるべきなのかを考える、という方法が実は早道なのかもしれません。急がばまわれ。

しかし親である僕たちが「幸せ」が何たるかをちゃんと知っているのだろうか。

自分が歩んできた道のりこそが幸せだと思い込んでないでしょうか。

僕ら少なからずそういうところがあると思う。未知に対しては尻込みして、自分がよく知っている事柄に安心して、ただ自分を肯定したいばかりに自分と同じ道を他人に押し付けたりする。

子が、自分たちの安心する道を歩んでくれると嬉しい。しかしそれは僕ら親の幸せの一つの形態であり、子どもの幸せではないかもしれない。

幸せの正体

幸せの正体について、僕は納得しています。メンタリストDaigoさんのチャンネルで答えを知りました。

科学的に「幸せ」というものは研究されていて、答えが出ているらしい。

曰く、僕らは自分の人生に熱中できる時間をもっとも幸せに感じる。僕らは自分が熱中する事柄に熱中できていることによって自分の人生を肯定する。

集中によって、熱中によって。

もちろん、他にも指標があるようです。すべては覚えていないけど、例えば他者への貢献感というのも僕らの幸せを作る重要な要素だったような気がする。

言われてみれば納得です。僕らは自分の命を燃やしながら、あわよくば誰かの命に火をともして暖めてあげたいと思ってる。感謝されると嬉しい。そういう類の善性が備わっているらしい。

もっと元も子もないことを言えば、僕らは幸せを作り出すようにできている。

自分が選んだことに対して、もしくは自分が選ばざるを得なかったものに対して、僕らは幸せを作りだし(見出すようになり)、実際に幸せを感じることができる。

『明日の幸せを科学する』を著したダン・ギルバードという人がTEDスピーチ『私たちが幸せを感じる理由』でそう説明している。

 

別の幸せについて考えることが不幸を招く?

ダン・ギルバードの話によると、僕らはどんな現状でもそこに幸福を作りだし、実際に幸せを感じることができる。

傍から見ていて不幸な状況でも僕らは十分幸福を感じることができるし、傍から見て幸福そのものな状況でも、感じる幸福度は普通に幸福な人とあまり変わらなかったりする。

幸福を感じる条件としては、その現状に納得していることが大事。自分が選んだという感覚、この道しかなかったんだ、という感覚。もしくは所有の感覚?

きっとざっくりまとめて言うと、僕らは自分の命を燃やし尽くすことに快感を覚える。現状を受け入れ、これが自分の人生だと悟ったときに幸せはやってくる。

他の可能性に捉われることによって幸福感や満足感が得られなかったりすることがある。

他の可能性、思い残す余地、もっとこうだったら、もしあのときこうしてたらが僕らの不幸を呼んでいる。

ならば肝心なことは日々全力で選ぶこと、最善を尽くしたと思えること、つまり熱中なのかもしれない。真剣ということなのかもしれない。結局そこに行きつくのだろうか。

その結果、失敗したり失ったりしても僕らは不幸にならない。懸命に生きて、掴み取ったもの、結果的に手元に残ったもので僕らは十分幸せになれる。

そのことを知っていることは、子どもの教育を考える上でも大事なことのように思えます。

子どものときの方が幸せだったんじゃない?

考えたら僕らそんな風に人生を選んできたのではなかったでしょうか。

その都度、これがベストな選択だと思いながら、失敗したり達成したりして、精一杯生きてきたのではなかったか。

入る学校も、付き合う人も、入る会社も、その都度それなりにきちんと選んだもので、自分にとって選ぶべくして選んだものではなかったでしょうか。

もっとよく考えてみれば、子どものときにこそ自分の人生を日々受け入れて、目の前のもので楽しんで、幸せに生きていた気がする。

大人になって、いろいろなことを知って、欲が深く、複雑になっていくにつれ、理想と現実のギャップに苦しみ、だんだん不幸とは言わないまでも「完璧に幸福とは言えない」人生だと思うようになったような。

僕らは条件で幸せにならない。持っているもの、選んだものの良し悪しによって幸福度は左右されない。納得したとき幸福感と満足感を得る。

だから、自分が歩んできた道のりこそが「幸福」なのだと考えるのも当然のことっぽい。

ということは、自分が歩んできた道のりをモデルに子どもに教育を施すのも大きな間違いではないわけだ。

でも僕ら、自分の人生は無難だし幸せなことにも疑いはないけど、この道しかなかったとはやっぱり思ってない。

理想と現実のギャップに苦しみ、分相応とか身の丈を知り、届く範囲で理想的な目標を掲げ、掴み取ったり取らなかったりして、「そりゃパーフェクトじゃないけど自分なりに精一杯」生きたから幸せになれる。

感覚で、自分のやり方がベターではあるけれどベストではないことを知っている。絶対的には最高な人生でも、相対的に見てベストと言えないとか、そういう冷静さはある。

自分の子どもにはぜひ自他共に認めるベストの人生を歩んで欲しいから、自分のことは棚に上げて、勉強しろだのなんだの言ってしまう。

自分はあのときああやって怠けたから、妥協しなければならなかったとか、やっぱりそういう記憶はあるから。

選択肢の多い時代、いろんな可能性がある時代の幸と不幸

子どもの教育について考えているつもりだったけれど、親である僕らが、自分の人生について考えあぐねているような気がします。少なくとも僕はそうだ。

僕ら日々、幸せってなんだっけ?とか、このままで良いのかなあ、とか思いながら、この正解のない時代、変化が激しい時代を生きている。

僕らの人生に上がりはありません。こうすれば安心、ここにいれば安心という時代は過ぎ去りました。

良い大学入っても良い職場が与えられるわけじゃないし、どんな職場も先行きは分からない。この資格を持っていれば食いっぱぐれないとか、そういうことも機械に仕事が奪われると散々言われるのだから、分からない。

明日も明後日も何が起こるか分からないという、ある意味健全な時代に生きている。サバイバルしてる。

親が子を育てるのは傲慢かもしれないです。親だってこの先どうなるか分からないし、正しい生き方ができている保証なんてない。

でも子どもができたらなんとなく自分の人生は一旦上がり、という気がする。これ以上人生を左右するような挑戦をするつもりはないし、試されるような関門もわざわざくぐる必要がない。

そういうのはまだ人生が出来上がっていない子どものすることで、そういうのを経て、僕らのようなゴールに辿りつくのだと思っている。

僕らにも上がりはないのに。僕らの人生だって完成してないのに。何歳からでも、子どもがいても、挑戦したり、試されるようなことをしても良いのに。

親が勉強し、学び、注意深く生きて、変化し続ける

親が自主的に学び、日々を注意深く生きて、変化し続ける。

これが大事なのかもしれない。

だって自分の子どもはこの先100年とか生きるかもしれなくて、その間何が起こるのか分からなくて、いろんな逆境もあるだろうし、思わぬラッキーもあるはずだから、持っていて欲しいのは、そういう時代を生き抜く術だろう。

でも親である僕らが十分にその術を持っているとは思えないから、子よりも先に学ぶ必要があるのではないか。

挑戦する姿、意見を変える勇気、可能性があれば試してみる好奇心、今に集中する精神。子よりもまず、僕ら大人がこの時代に適応しなければならないのではないか。

僕らは良い時代に生きている。

様々な可能性に溢れていて、いろいろな人生を自分の手で選ぶことができる。

でも、選択肢と可能性は多ければ多いほど良いというわけでもない。

僕らは目移りしたり指をくわえて見てたりする時間、自分の人生に納得がいかず、もっと良い道があったはずと思いながら生きる時間に不幸を感じる。自分が置かれている今の人生に集中も熱中もできないとき、僕らは不満を感じる。

だからこの時代は、選択肢も可能性も多い反面、不幸に陥りやすい時代なのかもしれない。

子どもに備えてほしい力を挙げるとキリがない

それを踏まえて、子どもに備えてほしい力はたくさんある。

意志力、決断力、柔軟性、好奇心、などなど。

個別にはもしかしたら語学力が必要と思う人もいるかもしれないし、プログラミングスキルが必要と考える人もいるかもしれない。社交性も、ユーモアも必要だ、と考える人もいるはず。

でもやっぱり、この能力を持っていたら安心、絶対幸せになれる、という保証もない。

すべてを網羅する必要はなく、子どもの性向に合わせて足りないものを補ったり、行きたい方向に行けるスキルを都度与えてあげられたら良い、ということかも。

今までは社会が用意した大船に子を乗せるのが親の役割だったかもしれないけれど、これからは手作りの、その場しのぎのボートをどうやって作るのかを教えて、親も自分の分を作って、一緒にこの目まぐるしい大海原を航海する感覚。

うん、既製品じゃなくて手作りする時代なのかもしれない、教育も。

ということは、親は情報を取捨選択する力、そもそも情報に辿りつく力が必要になってくる。情報を疑い、疑いすぎず、主体的に選ぶこと。

それはもちろん子にも教えてあげられること。そして主体的に選ぶことはそれすなわち幸せの要素でもある。

でも、そう考えていくと、いずれにせよ親と子はコミュニケーションがとれていることが重要、という話になるんじゃないだろうか。

人生100年時代、安定なんかない時代の教育

教育に正解はないのかもしれない。

この記事を読んでくれている人は、もしかしたらある種の「正解」を求めているのかもしれないです。

でも残念ながらこれという答えがなくてガッカリしているかもしれなくて、長々と付きあわせてつまったので申し訳ない。

でも教育について学ぶ土台はできたのではないでしょうか。

教育について学びたくなってきた。いろいろ試したくなってきた。子どもにじゃなくて、自分で。自分の人生で。そしてその姿を子どもに見せるのが良いんじゃないだろうか。僕はそんな気持ちになりながらここまで書きました。

この記事は序文のようなもので、今後は個別具体的な能力についてとか、読んだ書籍を参考にとか、そういう風に記事を作っていきます。

語学能力はどれくらい必要かとか、社会性はどうすれば育まれるだろうか、とか、教育にペットは役立つだろうかとか。ご自分の子育てを作るヒントになるような情報を心掛けます。

僕らはどんな状況でも幸せを作り出すことができる。

基本的には子どもの幸福は心配しなくて良いのかも。僕らはその場その場で十分幸せを作り出すことができる。

不幸な事柄があるのではなくて、不幸を作り出す迷いがある。

迷うたびに対処すれば良い。納得するまで考えれば良い。常に疑いながら、かつ疑うことなく、できることをやれば良い。真剣であれば良い。

そう思いました。

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