幸せについて本気出して考えてみたからメモ

懐かしい歌のタイトルをタイトルにしてしまった。

優越感なしでは人は幸せになれないのか/『鋼の錬金術師』が刺さる、何度も

という記事にコメントをいただき、返事を書いていたら熱くなってしまい、2600字程度の返信をしてしまってアホかと思いました。

頂いたコメントの内容をものすごく簡単に言うと、「結局人は優越感なしでは幸せになれないのだろうか?」というもの(僕の記事が曖昧に着地してた)。

「優越感、つまり優れている点は誰かのためのものだと考えれば幸せに繋がるのではないか、ということが書きたかった」と返信すると「納得はできるものの、それはどんな種類の幸せなんだろうか?」という疑問をいただきました。

これに答えてると長くなってしまった上、何となく不完全燃焼なので改めて記事にしようと思いました。

元のやり取りが気になる方はぜひリンク先の記事の方をごらんください。

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幸せについて考えない時間こそが幸せ

まず幸せについて、一番元も子もないことを言いますが、「幸せについて考えない時間こそが幸せ」であると思います。

それは自分の幸せだったときを思い出してみてもそう。幸せとはなんだ?自分は幸せなのか?と考えるとき、少なからず現状への不満や疑問があるものではないでしょうか。

元も子もなさすぎるのでもう少し輪郭のはっきりした尺度で言えば「幸せとは選択肢があるかどうか」だと思います。

例えばブラック企業で働いていること自体は不幸ではなく、他に選択肢がなく、そこにいるしかないことが不幸なのでしょう。

選択肢がない、という状態は「人生をコントロールする力」の喪失であります。

「幸せについて考えないこと」

「選択肢があること=自分の意思でコントロールできる余地があること」

これらの知見は、メンタリストDaigoさんのチャンネル、及び、ふろむださんの『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』などでも紹介されていました。

幸せの形は人それぞれ、とは言うものの、どうやらある程度輪郭ははっきりしているようです。

適度な選択肢が大事だ。なぜなら、自分がコントロールできる範囲が限られているから

人生は選択肢が多ければ多いほど良いというわけでもなく、僕たちはあまりに選択肢が多いと不幸せになることが分かっているそうです。

適度な選択肢が欲しいです。

エアコンとテレビのリモコンがあると嬉しいけれど、航空機の計器類やスイッチを好きにして良いと言われても困る、みたいな話です。

今の時代は、自由な印象があります。

一昔前は画一的な人生設計こそが正義だったけれど、現代は人と同じであることはリスクであると捉えられるようになった。

それぞれが個として、自分の道を作り出さなければならなくなった。

僕らには無限の可能性が広がっていて、なんでもやりたいことができるが故に、不幸を感じることが多くなったのかもしれない。

自由とは、「何をしても良い」ではなくて、「いくつかの選択肢から自分の意思で選べる」ということだと思います。

しかしその「いくつかの選択肢」というのは、与えられるものではない。

僕らは自分の人生をコントロールする選択肢を増やすためにとりあえず勉強し、人と会い、お金を稼ぎ、時間を惜しむのかもしれません。

自分らしさを問う時代

自分って何なんだろう?自分らしさとは?自分は何を幸せと感じるんだろう?

そんなことをよくよく考えなければならない時代に生きていると思います。

なぜなら僕らは自分で自分の人生を作る必要があって、自分で選び続けなくてはならないから。

僕らは「何がやりたいか」と同じくらい神経に、「何がやりたくないか」も考えなくてはならない。

その問いは、逆説的な話ではありますが幸せから遠ざかる問いとなってしまいます。

「幸せについて考えない時間こそが幸せ」なのだとしたら、「自分にとっての幸せとは何か?」という問いは地獄の問いです。

では、自分を規定する道しるべとなるもの、手がかりとなるものはなんでしょうか?

選択肢は与えられない、は本当か?

僕らが歩むべき道は誰も教えてくれない。

こう生きるべきだ、なんてことを示してくれるものはない。

それは本当だろうか?

自分とは何か?を問うとき、それを教えてくれるのは他者だったり、過去の自分だったりするのではないか。

先日、以下のような記事を書きました。

頭に残ってるみんなの言葉を集めてみた。僕は誰かの言葉で作られてた。

今まで僕が人からもらった言葉を集めて、自分を見つめてみた記事です。

そういえば僕がああしたとき、あの人が喜んでくれたな、あのとき嬉しかったな。

あの人は僕のこういうところが良いと言ってくれたな、あのときも嬉しかった。

あれはうまくいかなかったし迷惑かけたな、二度とやりたくないな。

あの人かっこ良かったな、ああなりたいな。

そういう風に僕たちは自分というものを他者との関わりの中で発見していくのだと思います。

自分らしさというものを作っているのも、実は他者なのではないか。

これは、比較対象がなければ僕らは自分のことさえ分からない、ということであります。

比べるもの、目印、拠点があるからこそ自分がどこにいるのかが分かる。

僕らは何かを知るために「比較」をすることを避けられない。このときに優越感が芽生えたり、劣等感が芽生えたりする。

自分とは何か、幸せとは何か。

それを考えるとき、比較しながら、自分の位置を確かめなければならない。

優越感がなければ幸せになれないのか?

ここでようやく優越感の話に辿りつきます。

僕らの優越感や劣等感は比較によって芽生えます。

あの人より上手だ、あの人より有利だ。

例えば自分は幸せか?を考えようとしたら、自分はあいつよりモテるから幸せだ、あいつよりお金を持っているから幸せだ、と考える。

もちろん、自己満足というのも幸せの大きな要素になる。いや、結局は自己満足の話になる。

例えば僕の「声」がとても優れていたとして、そのことに僕がまったく興味がなかったらそれは優越感になるでしょうか。満足に繋がるでしょうか。

声なんてどうでも良いよ、と思っている場合、そこに優越感は芽生えないかもしれない。

つまり、優越感を抱くという時点で既に自己満足の、主観100%の尺度というものが働いている。

ここは自分でも気に入ったぞ、という感覚なくして、誰かと比べて優れたものを持っていたとしても優越感は起こりにくいんじゃないか。

劣等感もしかり。

「優越感を他者のために使うと幸せに繋がる」と以前書いたのだけど、それは自己満足と主観という土台ありきの行為だと思いました。

声が良いと言われたからと言って誰もが声優や歌手を目指すわけじゃない。

そこに納得がなければ優越を活かすという発想にならず、それで人の役に立とうとも思わないし、喜ばれてもそれほど嬉しくなかったりする。

こんな経験もまた、自分を知る目安になります。

誰かの選択肢を増やすことができたら

これらの話を通して何が言いたいかと言うと、「優越感を他者のために使う」とは言っても決して犠牲的精神によるものではないということ。

優れている点が自分にあると自覚できるなら、そしてそれで喜んでもらえてうれしくなれるなら、それは人のために使えば良い。

また「優越感を他者に与える」という場合もただ褒めそやすとかおだてるとかではなく、「選択肢を与える」という風に捉えられないだろうか、ということです。

「あなたはここが優れている」と伝える。自分にはできないこと、自分では足りないことを、相手にあると認めて、伝える。ただしそれをどうとらえるかは相手次第。

僕たちはつまり「欲求と選択肢の交換」をしている。

他者に与えられた選択肢の中から自分の欲求を満たすものを選び、人生をコントロールする。

他者に選択肢を与えるということは、誰かが自分の人生をコントロールする可能性を上げる、ということでもあると思います。

少し言い方と視点をかえれば、誰かに選択肢を提供できるということは、その誰かに「影響を与えた」ということであり、間接的に他者をコントロールする手段でもある。つまり劣等感の補償になる可能性になる。

いずれにせよ利己的な欲求がありまる。

これは単純に「コミュニケーションの欲求」とも言えると思います。

僕らは人と何らかの形で関わりたいと思っている。

誰かに影響を与えたいと思っている。

僕らは自分の力で人生をコントロールし、相手をコントロールし、世界をコントロールしたいと思っている。

その世界とは、数ある選択肢の中から自分で選び取って寄せ集めた世界である。

そういう世界にいるとき、きっと僕らは幸せの中、大きな満足の中にいて、幸せについて考えることは少なくなる。

つまり幸せに近づく。

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